ロスト・ヘヴン
 さすがに少女の力で、大の男を運ぶことは出来ない。
 必死に止血を施すと、傘も鞄も置いて男に肩を貸した。迷っている暇はない。少女の家に戻るしかないだろう。

「ほんの少し、歩けば、私のアパートがあるから」
「でも……」
「大丈夫。誰もいないの。一人だから」
「……怪しいだろ、俺」
「ここにいたら、警察と救急車を呼ばれるわよ」

 確かに怪しいと思う。普通なら絶対に自分の家に運ぶことなど考えないだろう。
 少女が躊躇しなかったのは、恐らく生きることに執着がないからだった。もしこの男に殺されても仕方がないと、そう思っている。

 止まない雨の中。
 じわりじわりと、制服を雨が浸食して行く。それよりも、男の方が気に掛かった。
 きちんとした治療をしなければいけない傷だと思う。今すぐにでも病院に行くべきだった。
 人を呼ぶことを嫌った男。限りなく怪しいし、余計なことに巻き込まれたような気もする。

 それでも少女が肩を貸してしまうのは。
 多分。

 その力ない瞳が、澄んでいたからだ。
 年齢を重ねて純粋さを保つのは難しかった。どんなに優しい人でも、こんな色は持っていない。
 まるで、世界を知らない父親のような真っ直ぐな瞳。

 今も、力のない足で歩きながら前を向く横顔の意思は強い。濁ることも汚れることもしない、純然としたその瞳を、少女は信じた。

 人通りのない道を懸命に歩く。アパートへ戻れば、大丈夫。
 少女は、男の背中を支える手に力を込めた。

 頑張って、なんて恥ずかしくて言えなかったから。
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