青春ゲシュタルト崩壊
ひと気のないプールは新鮮で少し贅沢な気分になる。普段は意識したことがなかったけれど、静かなため声がよく響く。
授業のときは水泳が憂鬱だった。けれど今はそうは感じない。むしろこの空間でなら泳いでみたい。
「私、プール自体は嫌いじゃないのかも」
「あ、それわかる気がします。私も泳ぐことは好きだったんです。ただ授業や競技になると好きじゃなかっただけで」
中条さんの妹は水泳の実力があるけれど、中条さんは窮屈になり水泳を途中で辞めてしまったと言っていた。私とは立場も環境も違うだろうけれど、窮屈というのはわかる気がする。
「決められたメニューの中で泳ぐのって、窒息しそうだったんですよね」
「私も自由に泳ぎたいって思うかも」
決められたルールの中で行う競泳を否定しているわけではない。ただ私や中条さんにとっての泳ぐことの意味とは、別であるだけ。きっと私たちは、泳ぐことに自由を求めている。
「……学校って水槽みたいだよね」
プールサイドに座り、水の中に指先を入れると、小さな波紋が広がっていく。想像していたよりも、ほんの少しぬるかった。
「水槽、ですか?」
「狭い水槽の中で、溺れないように必死に泳いで生きてるみたいだなって」
私たちは学校という水槽で、流れるように日々を泳ぎ続けている。
「与えられる噂話や悪口などの餌を食べながら、同じであることこそが正しいのだと思い込んで、餌を求め続けてお腹を満たしていく」
「その餌は毒でしかないですよね」
「けど、私たちは毒と知っていても、必要であれば食べてしまうんだろうね」
少しくらい毒を食べないと、周りとの関係だって悪くなることもある。だからそれは、生きていく術として人によっては間違いとは言い切れない。
「まあ、そもそもみんなに好かれるなんて無理な話なのに、嫌われるのは怖くて、そういう矛盾から毒を食べてしまうのかもしれないですね」
「私は毒を食べすぎたのかもしれないな」
「先輩が、ですか? 悪口とか言ってそうに見えないですけど」
私の隣に座った中条さんにまじまじと見つめられて、居た堪れなくなり、わずかに俯く。
「私の場合は、周りの悪口を肯定してた。自分は言わなくても、言っていたのと同じだよ。わかるよ、そうだよねって肯定して、自分を守り続けてたんだ」
「それも発症の理由のひとつですか?」
「……多分、そうだと思う」
少し前までの私は、周りを肯定していないと弾かれてしまうと思っていた。けれど水槽から出てみると、世界は広くて、とても狭い視野で生きていたことを知った。気づかせてくれたのは、朝比奈くんだ。
駄菓子屋に連れていってくれた日、私の中で確実に変化が生まれた。
泳ぎ続けなければいけないと思い込んでいた私の腕を引いて、別の世界を見せてくれたおかげだ。水槽から出て見えた景色は眩しくて優しくて、今も鮮明に焼きついている。
「でも、人を肯定するのっていけないことじゃないと思うんですよねー。だってそのおかげで救われることもあるじゃないですか」
「そうかも。……けどきっと、発症したときの私にはその発想はなかったんだと思う」
「じゃあ、先輩は自分を責めてしまっていたんですね」
庇ってくれるような中条さんの言葉に曖昧に微笑む。肯定がいけないわけではない。けれど私には自分というものがなさすぎた。
「最近少しずつ自分の中で気づき、みたいなものがあって」
「どんなことですか?」
「部活や友達、先生たちのこと、私も勝手にイメージを思って決めつけていたなって」
顧問の桑野先生のことを、絶対的な存在のように思っていた。熱血で厳しくて、この人に逆らえば居場所がなくなる。うまくやっていかなければいけない。そればかりに気を取られていて、叶ちゃん先生が桑野先生を叱ってくれたとき、当然だけれど〝この人も間違えるのか〟と感じた。
「だいぶ落ち着いたみたいですね」
「え?」
「バスケ部の人たちに連れていかれたのを見たとき、心配だったんです。確実に間宮先輩によくないことが起きるって胸騒ぎがして……」
だから中条さんは、連絡先を知っていて私ともか関わりがある朝比奈くんに連絡を入れてくれたらしい。
「心配して、こうして連れ出してくれたんだね」
「提案したのは朝比奈先輩ですよ」
「……朝比奈くんが?」
「案外あの人、お節介なんですよね!」
まさか叶ちゃん先生まで巻き込むとは思いませんでしたよと中条さんが笑うと、背後から足音が聞こえた。
「誰がお節介だよ、ボケ」
振り返ると心底嫌そうに顔を歪めて悪態をついている朝比奈くんが立っている。