青春ゲシュタルト崩壊
お兄ちゃんの専門学校への進学や、就職問題のときによく起こっていた。
お母さんもお兄ちゃんが大事だったからこそ、自分の想像とはかけ離れた方向へ行ってしまって悲しかったのかもしれない。
受け入れて応援していたら、きっと丸くは収まっていた。
けれど否定して口喧嘩になってしまっていたのは、お兄ちゃんのことを想っていたからだ。とはいっても、その言動が正しいとは言い切れない。
お兄ちゃんにとっては押し付けのように感じていただろうし、本心では応援して欲しかったのだと思う。
「朝葉は母さんのこと好きだろ」
「うん。厳しいけど、好きだよ」
「なら、ちゃんと話してみな」
お兄ちゃんの大きな手が私の頭を軽く撫でる。
「……お兄ちゃんもそうしたの?」
「俺は反抗期真っ只中だったから、喧嘩ばっかでちゃんと向き合わなかったなー。それは反省してる」
歯を見せて笑う横顔は、子どもの頃のままの無邪気さを思い出させる。お兄ちゃんはとっくに大人だけど、私のお兄ちゃんのままだ。
「まあ、そこは仕方ないっつーか。でもさ、ああ見えて気にかけてくれてんだよ」
「そうなの?」
てっきり仲は最悪で、私の知らないところでも喧嘩をしているのだと思っていた。
「俺が旨いっていたご飯とか、翌週また出してくれたり、バイトのこと遠回しに聞いてきたり、母さんなりにコミュニケーション取ろうとしてくれてる」
「まったく知らなかった……」
お母さんはずっとお兄ちゃんに対して怒っていて、お兄ちゃんもそんなお母さんにうんざりしている。そんな風に私は頭の中で決めつけて、家に居心地の悪さを覚えていた。だけど、話してみないとわからないことばかりだ。
「けどまぁ、進路のことに関しては別なんだよ。母さんは俺のことも大事にしてくれてるよ。でも、自由に育てすぎたって後悔は母さんの中で消えないんだと思う」
「……そこだけは、分かり合えない部分ってこと?」
「そ。だから、朝葉にできる限りのことを母さんはしたいんだよ。だけどさ、朝葉の人生だからしたいことや、やりたくないことがあるなら、ちゃんと話してみな」
お兄ちゃんには私の甘えを見透かされているように感じた。
「人に委ねてばかりだと、肝心なときに自分でなにも決められなくなる」
「……っ」
「朝葉、自分の気持ちを話して、母さんの気持ちも聞いてみな」
きっと自分では決断せずに、お母さんに従って楽をして、その結果が望むものにならなければ、言われたとおにやってきたからだと相手に責任転嫁をする私の醜い部分すら知られてしまっているように思える。
「お兄ちゃん……っ、私実は」
青年期失顔症のことを打ち明けようとしたときだった。
玄関のドアが開く音がして、なにかが勢いよく床に落ちたような音がした。慌てて立ち上がり、玄関まで行くと雨に濡れたお母さんが帰ってきたところだった。
床にはたくさんの食材が詰められたエコバッグが、ふたつ並んで置かれている。
「はい、タオル」
お兄ちゃんがバスタオルを渡すと、受け取ったお母さんがきょとんとした顔で「こんな時間からいるの珍しいわね」と返す。表情は少しだけ嬉しそうで、先ほど話を聞いたばかりだからか、これまでとは違った感情が芽生えてくる。
「今日はなんも予定なくて」
「そうなの? 運がいいわね。今日の夕食はハンバーグ」
「まじか、ラッキー」
受け入れられない部分があっても、お母さんにとってお兄ちゃんは大事な存在であることは変わりない。家族だからといっても、すべてを肯定して受け入れないといけないわけではないのだ。
「暇なら手伝いなさい」
「俺が作れると思う?」
「お皿洗い係よ」
「うえ、まじかよ」
一人ひとり違う人間なのだから、違った思考や意見を持っていて当然で、関心があるからこそ衝突することもある。それなのに私は、ただお母さんが思い通りならなくてお兄ちゃんを嫌っていると思い込んでいた。
多分お母さんは、お母さんなりにお兄ちゃんに幸せになってほしいと願っていた。その形が押し付けてしまうような幸せで、お兄ちゃんとは合わなかっただけだ。
「朝葉?」
ふたりのことを眺めながら、呆然と立ち尽くしていた。こんな風にお兄ちゃんとお母さんが話をしているのを見るのは久しぶりな気がしる。
「っ、どうした? なんで急に泣いてんだ?」
お兄ちゃんの言葉で、自分が泣いていることに気づいた。頬に手を当ててみると、指先が濡れている。
「お母さん、話があるの」
なにかを察したのか、お母さんが神妙な面持ちで頷くと「着替えるからリビングで待っていなさい」と言って、階段を上がって行った。