青春ゲシュタルト崩壊
無言のままお兄ちゃんとエコバッグに入った食材を冷蔵庫に入れ終わると、心配そうに顔を覗き込まれる。
「大丈夫か?」
「……うん」
「俺も聞いてていい話?」
頷くと、お兄ちゃんは私を落ち着かせるように軽く頭を撫でた。
「じゃあ、ソファに座ってよっか」
お兄ちゃんと再びソファに座って待っていると、少しして着替え終わったお母さんがリビングへやってきた。L字型のソファのカーブしたあたりに腰をかけると、じっと私のことを見つめてくる。
「それで、どうしたの?」
話を振られて、どきりと心臓が跳ねる。自分から話があると言ったくせにお母さんの前で自分の意見を言うのは、緊張してしまう。
「……私、ね」
話すことなんて、最初から決まっている。明日私が行動を起こすために、まずしなければいけないのは、お母さんに打ち明けることだ。以前のように相談ではなく、決めたこととして。
深く息を吸い、胸に手を当ててからお母さんに視線を向ける。射抜くような眼差しに怯みそうになるけれど、もう後に引き返すことはできない。
「部活をやめる」
想像以上にはっきりと通った声で告げることができた。意見を曲げないという意思を示すように、私はお母さんから目をそらさないで耐える。
「……なに、言ってるの?」
驚いた表情からは、血の気が引いているようにも思えた。先ほど雨に打たれて、体が冷えているのかもしれない。
「実は今も休部してる」
「っ、そんなのこと聞いてないわよ!?」
「休部したいって相談したときダメって言われたけど、どうしても……もう限界だったの」
ずっと隠していた事実を打ち明けると、お母さんが声を荒げた。覚悟はしていたものの、気圧されて体が震えてしまう。
「黙っていてごめんなさい」
「部活を辞めてどうするつもりなの? せっかく中学から続けていたバスケ部に入ったのに」
「バイトとか、自分のしたいって思うことに時間を使う」
バスケは自分のしたいことではないと、主張するように話すと、お母さんの表情が歪んでいく。ごめんなさい。こんな悲しませかたをさせたいわけではなかった。
「お母さんは私の進路の心配とかしてくれてるんだよね」
「……わかっていて、やめるつもりなの?」
「もう決めたの」
変えるつもりはない。今度こそ、自分で選んだ道。じっと見つめあっていると、お母さんが頭を抱えて深いため息を吐いた。
「はぁ……もう、貴方にそっくり!」
その声音は怒りというよりも、諦めと呆れが含まれているように聞こえる。言葉を向けられたお兄ちゃんは、閉ざしていた口を開けて仕方なさそうに笑った。
「俺に怒るなって。大体母さんは押しつけすぎ」
「夕利が自由すぎたからでしょう!」
「俺のせいにすんなってー」
「まったくもう! たまに早く帰ってきたと思ったら! 朝葉になにか言ったんじゃないでしょうね」
「いやいや、俺だって部活休んでるのとか今知ったし」
口喧嘩とまではいかないものの、お兄ちゃんとお母さんの会話は打ち解けている家族そのもので、改めてふたりの関係が思っていたよりも悪いものではないのだと実感する。どうして私は気づけなかったのだろう。
……あ、そうか。私は自分のことばかりで、家族のことさえもちゃんと見ていなかったのだ。
「あ、あの、辞めていいの……?」
「なに言ってるのよ。今朝葉が決めたって言ったんでしょう」
「いや、でも……休部のときはダメだったから」
「そのときは、あくまで相談だったでしょう」
もっと叱られるかと思っていたので、拍子抜けしてしまう。頭ごなしに否定されたら、鞄のなかに入っている退部届を見せて覚悟を証明しようと思っていたというのに。
「朝葉は母さんが絶対的って思い込みすぎなんだって」
お兄ちゃんは私の様子を見て、考えていることを悟ったのか鋭い指摘をしてくる。たしかに私は、お母さんを絶対的存在のように思っていた。お母さんに呆れられて見捨てられたらと考えると怖くてたまらなかった。
「なにか頼み事するときも萎縮して、言いたいこと我慢して、言う通りにしてたら穏便に済ませられるって思ってただろ」
「……う、うん」
「まあ、俺が母さんの高校生の頃からよく衝突してたから、それが元凶なんだろうけど」
正直、その通りだった。お兄ちゃんとお母さんの喧嘩を見ていて、お母さんを怒らせるようなことを言わないようにしようと心に決めていたところがある。
「夕利がとんでもないことばかり起こすからでしょう」
「それは反省してます」
横目でお母さんが睨むと、お兄ちゃんは悪びれもなく肩を竦めた。今まで思い詰めていたことが、案外話してみると重く考えすぎていただけなのだと知る。
私はいったいなにを戦っていたのだろう。見えない自分自身とでも勝手に戦って、苦しんで追い込んでいたのかもしれない。
「朝葉、大丈夫だよ。わがまま言ったって」
「え……」
「気にさせて、ごめんな」
申し訳なさそうに謝るお兄ちゃんに、首を横に振る。お兄ちゃんが悪いわけではない。私が自分自身の首を締めていただけだ。
「っ、違う、私……っ、自分のことばっかりだったの」
ぽたり、ぽたりと涙が手の甲に落ちていく。私の目から、涙がこぼれ落ちてきているけれど、真っ黒なテレビ画面に映っている私の顔は見えないままだ。
まだひとつだけ言えていないことがある。
これは話さなければいけない。