深海特急オクトパス3000
『あなた鏡を見たことないの?』
えっ?
『いいから』
彼女は洗面台の鏡を指差す。
僕は立ち上がると洗面台の鏡に近づいた。
薄暗い部屋の中、
鏡の中の人影がこちらを見つめる。
暗闇に目が慣れぬまま鏡に近づくと、
鏡の中から見知らぬ女性が、
こちらを伺うように覗き込んでいた。
僕は恐怖で飛び退き、
狭い個室の壁面にしたたかに背中を打ち付け、
その場に座り込んでいた。
鏡の国の幽霊?
いやそもそも僕は記憶を失くしてるのに、
なぜ自分を男だと思っている。
確かに声は低くく男のものだ。
だが僕はそもそも自分の姿を見ていない。
僕は再び恐る恐る鏡に近づくと、
鏡の中の女性も怯えるように鏡に近づき、
こちらを探るように伺い見ていた。
鏡の中のブロンドの女性。
鏡の中のアリス。
これが僕なのか?
主観と客観の裂け目から、
彼女が自分を見つめていた。
どこからか少女がつぶやく。
『私は記憶を整理する時、
鏡を見つめ暗示をかける。
それは自分にとっての、
シンギュラリティーなのだと』
数奇な運命を映した鏡の中の美少女に
手を伸ばす。
鏡の中の彼女も同じように、
こちらに手を伸ばしていた。
二律背反にわかたれた世界。
鏡を隔て僕の手と彼女の手が重なったその瞬間、
まるで世界の境界線が壊れたように、
鏡面反転していた。
イマジナリーラインを越え、
まるで現世と幽世が入れ代わるみたいに、
自分が反転して鏡の中の自分と入れ代わる様な、
奇妙な錯覚と浮遊感。
永劫回帰の無限円環の中に囚われたような、
錯覚を覚えていた。
ある種の強迫観念がそう見せているのか、
入れ替わった鏡の中のアリスが、
微かに笑んだように感じた。
ある種の親和性を溶かして、
写真のネガのように白と黒が入れ変わった世界。
鏡の中の自分は、
どこまでも女性の顔でこちらを見つめ、
僕に存在証明のパラドックスを突きつけていた。
消えていた室内の電灯が点滅を初め、
鏡の中の何かを幻の如く明滅させていた。