いつかのエチュード
「夫人のサロン用練習曲にすぎない」
名指揮者であり、ピアニストでもあるハンス・フォン・ビューローの言葉。彼はかつてピアノの詩人と言われたフレデリック・ショパンの『黒鍵のエチュード』についてそう語ったそうだ。
たかが練習曲。されど練習曲。忘れられない美しい特別な曲。
「中村先生、こないだ綺麗な女の人とソレイユ入っていったって」
「ええ、ショック!」
ソレイユ、というのは最寄り駅近くにあるビストロだ。そんな看護師の女の子たちの会話を小耳にはさみつつ、夏海は論文に目を通す。
研修医はとにかく忙しい。20代の若く体力とやる気のある今でなかったら、絶対にできないことだろう。大人になってから医学部受験なんて話もあるけど、とうてい自分には無理だと思いながらすっかり冷めたコーヒーを一口含んで、机に突っ伏した。少しも眠気は冷めない。
論文の冊子を枕に目をつぶっていると頭を軽く小突かれた。
「伊藤先生が呼んでた」
聞きなれた声に顔を上げると、先ほどの会話に登場した中村和樹が立っていた。
夏海はいかにも憂鬱な顔をして和樹を見ると、彼は軽く笑った。
「怒ってなかったよ。ただ、早く呼べって」
「他には?」
「怖がるなよ。大丈夫だって」
いかにもおびえた顔をした夏海に和樹は無邪気に笑った。
「もう、ほんと嫌。あの先生、細かくて。これで医者を目指すのやめた人間ってどのくらいいるのかしら」
「けっこういるらしいよ、ダメになった人」
ゲッと、いかにも嫌そうな顔を見せると、和樹はまた少年のように笑った。
大学時代から夏海の同級生でもある和樹は、同じ研修医として大学病院に勤める同僚だ。ジャケットなんて着るようになった最近の彼はすっかり大人の顔をして仕事をしている。
学生時代こそ明るく無邪気で周囲のムードメーカー的存在だったものの、社会人になった彼はすっかり真面目に、時折は冗談もいいつつ、うまく自分の意見も伝えながら仕事をこなしていた。その理知的な彼の姿に惹かれる女性も多いようだ。
大きくため息をついて立ち上がった夏海に和樹は少しだけ無邪気さを残して笑った。
「説教話聞かせてよ。ビールでも飲んで待ってるから」
そういって医局から見送ってくれた同僚は自分よりずっと上手に生きていると夏海は思った。
和樹は、ハンサムだ。少し目じりがきついように思うけど、いわゆるクールな顔立ちのイケメン、というのにあたると思う。涼しげな顔で、飄々としていて、嫌味のないように自分の意見もきちんと言う。面倒な担当教員からの指摘も軽く流してこなしていく。冗談も言えるから周囲からも親しまれている。上手に生きている、と思ってしまう。
大学からその後の進路の大学病院まで同じ存在はそれほど多くはなく、和樹と夏海は腐れ縁のような関係だった。
それでも、互いに気にかけあう存在がいることをありがたいことだと思いながら、面倒な教員の説教の後、夏海はよく訪れる駅前のスペインバルに足を運んだ。
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