いつかのエチュード
「お疲れ」
カウンターに座っていた和樹はすでに何杯かビールを飲んでいたかのように陽気な笑顔を見せた。すっかり疲れた夏海取り急ぎ、生と言ってビールをもらってグラスを傾けた。
「大丈夫だっただろ」
笑いながら言うか和樹に夏海は疲れたように言った。
「どこがよ。ネチネチネチネチ、本当にしつこかったわ」
心底嫌そうに夏海は言いながら、ドカンと重いバッグを置いた。書籍に論文に、肩が重くなるほどの紙切れが詰め込まれていた。こんな思いまでして医者にならなきゃいけないのだろうか、と思ほど不快な気分だった。
夏海が医者を志したことに、大きな事情はなかった。理系の科目が得意だったし、手に職というものが欲しかった。あとは「これからは資格の時代よ」という母親の言葉を信じて、医学部を受験した。バイオテクノロジーや化粧品開発なども興味がないわけでなかったが、確かに国家資格はあると便利かもしれないと思って医学部に入って、結局流れにまかせるように臨床の現場を選んで、今に至る。
研修医は本当にハードだ。ここでダメになってしまう人間がいることも想像するに容易い。ぐったりと疲れた様子でうつむく夏海に、いつのまにか顔なじみになったマスターはお通しに必ずお気に入りのオリーブの実を出してくれる。まぶしい金色の液体も一緒に目の前に出された。ふっと微笑んで力が抜ける瞬間。
「明日一日休んだら、伊藤も忘れてるよ。」
そういって、偉大な年上の教員も自分も呼び捨てにする明るい男に、夏海はつい微笑む。
乾杯、という彼にありがとう、と言ってグラスを傾けた。
マッシュルームとエビがゴロゴロ入ったアヒージョの油にバケットを浸しつつ、夏海は言った。
「ところで、美女とビストロに行ったという目撃情報があるけど」
和樹は何杯目かのビールのグラスを口につけながら、何のことだと首を傾ける。
「ああ、瑛子のこと?」
思い出したかのように彼は言った。
「新しい彼女?」
「まさか。兄貴の奥さんだよ」
和樹はつまらなそうにビールのグラスを口につけた。
彼女と間違われるような存在が、兄の奥さんというのは意外だったし、義理の姉と二人で食事に行くことにも驚いた。
「モデルみたいな美女だったっていう話よ」
夏海が言うと、和樹は笑った。
「瑛子は身長もそこそこあって美人だから。髪もきれいだしね。って、その話どこから?」
少し冷めたアヒージョのエビを口に入れつつ、夏海はつぶやくように言う。
「看護師の子たちの会話が聞こえただけ。親しそうだったって話よ。」
てっきり彼女かと思ったわ、と言って残りわずかな金色の液体を飲み干した。
マスターはすかさず「次は」と聞いてくる。和樹に、まだまだ飲めるよね、と確認して、カヴァのフルボトルを頼んだ。
「瑛子は、兄貴のこと大好きだから」
エイコ、と呼び捨てにする和樹の横顔は笑っているのにどこか切なかった。その表情はほんの一瞬だけ寂しそうに見えた。何が彼の表情をそうさせるのか。
「ショックって言ってたわよ、看護師の子たち」
「ふうん」
「あら、興味ないの?」
「あの子たちはね、俺じゃなくてもいいの。来年また新しく来た人のことで騒いでるよ。」
「そうかしら」
そういって目の前で開けてもらったカヴァは細いグラスに注がれ、小さな気泡を弾けさせていた。向かい合って乾杯するのではなく、横に並んでグラスを傾ける私たちはやはり恋人同士とは違う。揃いのグラスを口につける目の前の男の顔は少し冷たそうにも見えなくないのに、嫌ではない。横顔だと特によくわかる、すっと通った鼻筋。時折見せる輝く笑顔は少年のようだ。この顔が自分に向けてぱっと明るく輝く瞬間、その笑顔を向けられたら、女性は、やっぱり心を奪われるのだと思う。
「お兄さんのお嫁さんも医療関係?」
何気なく聞くと和樹はカヴァを口に運びながら言った。
「いや、音大出のお嬢さん。」
見合い結婚なんだ、という和樹の言葉を適当に聞き流しつつ、音大って、何か楽器を演奏されるの。と世間話で夏海は聞いた。すかさず和樹は言う。
「ピアノ。たいしたことないって本人は言うけど、いいよ。すごく。ピアノは楽器の王様っていうだけある。聴いていて楽しいし、やっぱり、生で聴くのはCDとは違う」
音楽なんてそれほど興味がなさそうなこの男が満たされた顔つきでそう言うのが印象的だった。
夏海は想像する。つややかなロングヘアで、細長い手足で、か細く光る指先で白黒の鍵盤を奏でる女性。切ない横顔で一つ一つの音を愛おしく撫でる。お見合いで、少し照れたように微笑む美しい女性を想像して、自分とはかなりかけ離れていると思った。
「素敵ね。憧れるわ。」
私も音楽は好きなのよ、と夏海が言った。
「でもまあ、瑛子は呑気で自由で我儘な一人娘だよ」
ひねくれた様子で言いながらも、和樹は嬉しそうにしていた。
その笑顔に、ああ、素敵な人なんだろうな、と改めて思った。演奏もさることながら、これだけ目の前の男の心を奪う何かがあるんだろうと思う。彼にとって自慢の義理の姉に違いない。
「和樹もお見合い結婚するつもりなの?」
「なんでそうなるわけ?」
手に持ったグラスを途中で止めて、若干あきれたように彼は言った。
「だって、ここのところ彼女つくる気配もないし、病院の女の子たちにもまるで興味を示さないし。もしかしてお見合いの話でもあるのかなって思っただけよ」
「ない、ない。一人前に稼げない研修医なんて相手にされないね。単に今は彼女とか作ってる余裕ないだけ」
「あ、そう。」
確かに暇ではない。いくら和樹が上手に物事をこなせるタイプだとしても。でも、本当に恋愛をする暇がないかといえば、そういうわけでもない。きちんとデートしたり、恋愛を楽しんだりしている同僚もいる。
「でも私の愚痴には付き合ってくれるのね。感謝してるわ」
夏海がそういって笑うと、和樹は少年のように無邪気な顔で笑って言った。
「おもしろいからね」
「なんか、ばかにされた気がするんだけど 」
「してないって!被害妄想だよ」
そういって二人でまた笑った。ワインは気持ちよく減っていった。
帰りの丸の内線で池袋まで行くという和樹に夏海はどこへ行くのかと聞いた。実家は吉祥寺なので、中央線に乗るために東京駅で降りるはずだと思っていたのだ。
降りないの?と首を傾げる夏海を目の前に、まだこの夜の続きを楽しみにしている少年のような顔で和樹は言った。
「兄貴のところ」
にんまりと、いやらしいほど丁寧に口角を上げて、切れ長な目じりを下げて、笑った。
彼のお兄さんが新婚だという話は聞いたばかりだった。
「どう考えてもお邪魔じゃないの」
「邪魔しに行くんだよ」
冗談にも本気にも取れる言葉と表情に、夏海は、あ、そうと返して、先に電車を降りた。ホームから振り返って車内を見ると窓越しに先ほどの笑顔のまま手を左右に振ってくれていたので、同じように夏海も返した。
いつか一人前と呼ばれるようになった頃、悩みながら同僚とお酒を飲んで乗り越えた夜が、いい思い出になっていたらいいなと思う。職場から帰る夜よりも、こうしてお酒を飲んで帰る夜のほうがいつも景色がきれいに見えたから。