いつかのエチュード

ピアノは、夏海もかつて習っていた。途中でやめてしまったピアノ。懐かしい、ちょうどいまの自分と同い年くらいだったかわいらしい先生を思い出す。

「エチュード、練習曲に過ぎないもの」

いつかのエチュード。目の前でキラキラ、音の粒が光って広がっていく。先生にとってたいしたことのないもの。夏海にとって忘れることのできないもの、特別なもの。


夏海がピアノを習っていたのは五歳から十四歳、中学三年になる直前まで。
好きでも嫌いでもなく、教養の一つとして習っていたものだったが、先生が好きだったので通っていた。もちろん、趣味のレベルであり、音大に進学したりピアニストを志したりというレベルではない。ただ、同級生の子たちよりピアノが弾けるというだけ、ちょっとだけ音楽に詳しいというだけ。

その曲を初めて聴いたのは中学一年の夏だった。
夏休みで、レッスンの時間より十分ほど早く教室についた夏海は、部屋の扉の向こうから聞こえる小さな音に気付いて、ついドアノブにかけた手を止めた。
チャカチャカと動き回るピアノの音色。先生の細い指が鍵盤の上を走り回る姿を想像する。曲名はわからなかった。ただ、光の粒が広がっていくようなまぶしさ。でもはかない一瞬の一つ一つに切なくなる感じ。そんな音のきらめきに心を奪われたのだ。

曲が終わったかと思われるタイミングでそっと扉を開けると、先生は「ああ、こんにちは」といつもと同じ笑顔を見せた。
「今の曲は?」
「ショパンよ。黒鍵のエチュード。ああ、エチュードっていうのは、練習曲ね」
まだ若い先生は夏らしい水色のストライプのワンピースを着て、肩までのセミロングヘアを軽く揺らして爽やかに微笑んだ。そして大した意味のないことのように付け足した。
「夫人のサロン用練習曲にすぎないって言われた曲なのよ」
幼い夏海は無邪気に返す。
「練習曲とは思えなかった。とても素敵だった。」
エチュードという響きも、練習曲という意味にはもったいないほど、なんだか素敵な言葉に聴こえた。完璧に心を奪われたのだ。
そうね、いつか弾こうね。そう微笑んで言って、先生はレッスンを始めた。

やがて部活や受験で忙しくなってピアノ教室を辞めた。
それからは、それまでに弾けるようになった曲を時折弾いてみるものの、独学で新しい曲を始めるほどの気力はなく、ただ、あのキラキラと音の粒の光が広がっていくのを懐かしく思うだけだった。いつかは、永遠にいつか、に行ってしまったと思う。そういうことはたくさんある。いつか行ってみたい場所、いつか会ってみたい人、いつかしてみたかったこと。
いつのまにか永遠に手のとどかないところへ行ってしまっているものは、きっとたくさんある。

そしてこれからも、手放していくものはたくさんあるのだろう。あきらめるという術を覚えたことは、決して悪いことではないはずだ。
いつか手にしたいと思って必死になることと同じくらい、手放す勇気は大変なことだ。
そう思う。


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