いつかのエチュード
「安藤先生、伊藤先生が呼んでましたよぉ」
自分よりずっと年上の看護師が夏海を呼んだ。苦手な人の一人だ。
彼女はベテランで、仕事もとてもできる人だ。そして本当は自分より年下の研修医なんかに‘先生’とつけたくない、とでも言っているような顔をしている。
そしてまたあの教授か、と思うと一つ深いため息をついてしまう。研修医のハードさは担当の教員にもよると言われたが、なかなかひどい目にあっているほうだと思うのは、被害妄想だろうか。
こんな調子では趣味はもちろん、恋愛なんてしている余裕はない。
後ろで一つに束ねたロングヘアは決して目的があって伸ばしているのではなく、美容室に行くのが面倒なだけだ。首を傾けると流れ込むように長い髪の毛は右腕にまとわりついた。美容室、行こうかなあと思いつつ、面倒だし毛先を自分でちょいちょいと切りそろえて終わりでもいいか。そしてまた少しだけすっきりしない気分になる。
二十代半ば。結婚したり、出産したりしている同級生もいる。それなのに、自分はまだ社会人としてのスタートも一人前に満たない。何がいい、悪いということもないが、ふと、不安で、疲れたと思うことは多い。でも、恋愛や結婚だって面倒だ。今よりもっと若いころ、人を好きになったことがある。想いが報われた喜びも失った悲しさも味わって、結局今は、そんな面倒なことはしている余裕がない。目の前の課題をこなして、同僚とお酒でも飲んでいる方がはるかに楽なのだ。人を好きになることから逃げているというわけではない、と思いながら、夏海はまた同僚とビールグラスを傾けた。
前回訪れた時から半月ほどが経っていて、太陽が一番強い季節だ。今日は曽根という同じく大学時代からの同級生の男性もいる。曽根もまた同じ大学病院に勤務する仲間でもある。
「和樹っていろんなこと上手にこなしてるよね」
目の前の男はおいしそうに冷えた白ワインを口元に近づけて笑った。その様子を見た曽根も渋い顔をして頷いた。彼もまた苦労人の部類に入るだろう。
「上手にこなしてるつもりはないけど、楽しんでるよ」
無駄なことなんてないし、といって無邪気にオリーブとズッキーニとエビが刺さったピンチョスを放り込む。その仕草ひとつとっても余裕を感じてしまう。楽しむということができるなんて、それは十分に上手にこなしているといえる。いいな、ずるいな、と思う。同じように国家試験をパスして同じ舞台に立っているはずなのに、なんでそんな笑顔を見せてくれるのだろう。和樹の笑顔は、いつだって本物だ。作り笑いじゃない、少年のような笑顔だ。
白ワインはよく冷えていて、この夏によく似合った。それなりに暑くなってきているけど、緑が濃くて気持ちのいい季節。
陽が長くて窓の向こうはまだ明るくて、街路樹の鮮やかな景色を眺めながらワイングラスを傾けることも日常の一つにすぎない。
曽根がかかってきた電話に出るために席を立ち、二人きりになる。若い男女が二人きりというのはデートに見えなくもないだろうが、私たちにとっては仕事帰りのワンシーンだ。マスターも、お店のウェイターの男の子も女の子もわかっている。私たち二人がこうしてお酒を飲んでいても、店を出て駅まで一緒に歩いていても、それを見た同じ職場の人たちなんとも思わないだろう。例えばそう、彼が彼の義理のお姉さんと歩いていたときのように、看護師の女の子たちに「ショック」などと言われることは、間違ってもないのだ。
それでも愚痴に付き合ったり付き合ってもらったり、情報交換をしたり、時折進路について相談したり、彼の存在に助けられることは多かった。願わくば、彼にとってもそうであったらいいな、と、夏海は職場にいるときと同じ顔でオリーブの実を口に入れる和樹の横顔を見ていた。
それにしてもこの大変な研修医時代を楽しんでいると言えるなんて、ずるい、と思った。でも笑顔を向けられると、夏海はつられて笑ってしまった。
いいなあ、と思った。仕事はきちんとこなすし、愛想がないわけでもないし、冗談も言えて、自己主張も嫌味のないようにきちんとできてる。
「性格なのか、持って生まれた何かなのか。私、和樹がうらやましい」
「あ、そう?俺、こう見えてけっこう繊細よ。うまくいかないことも多いし」
「絶対、絶対、うそ!」
強い口調で夏海が言って、また二人で笑った。ふざけてくれているのだと、笑わせてくれているのだと思ってしまう。こういうやり取り一つ一つをとっても、和樹は上手に生きていると思えてしまうのだ。
やがて同僚の曽根が戻ってきて、今の話をすると、彼もまた、夏海の意見に同意した。和樹はやっぱり上手に生きている。同性の男からもうらやましいと思われるほどに。
「くそーなんで和樹ばっかり順調なんだよ。俺なんてまた彼女とケンカだぜ?」
曽根が悔しそうに言って、みんなで笑った。せいぜいおいしいものでもご馳走しな、と和樹が笑った。そうだね、と夏海も言う。おいしいものはわりと効果があると思うのだ。
そしてこんなふうに楽しく酒を飲んで、おいしいものを食べて、嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったことを親しい人たちと分け合って、過ぎてゆく日々を夏海は悪くないと思う。同年代の女の子たちが手にしている幸せを自分が全部を持っているわけじゃないとしても、そのことは、きっと悪くない。
もちろん大変なことも多いし、うまくいくことばかりではないけれど。
一人歩く最寄り駅からの帰り道は、いつも通り静かだったけど、いつも通り、意外と寂しくなかった。