いつかのエチュード
希望の進路は産婦人科だった。
それは夏海が自分が女だからこそできる何かについて考えた結論であったが、絶対的というより相対的な選択に、本当にこの道でいいのかと迷っていた。
そんなとき、国家試験にパスしてこうして臨床の現場で研修しながらも、もしかしたら自分には他の人よりこの仕事に情熱も関心も少ないのかもしれないと思ってしまう。
いっそ和樹のように実家が病院だったならもっと使命感ももてたかもしれない。曽根のように難しい仕事をして稼ぐ、という目標があるのでもよかったかもしれない。
本当にこのまま進んでいいのだろうか。
安易に選んでいい道ではない気がしてたまらなかった。
「安藤さんは真面目だねえ」
先輩にあたる澤田先生は医局でコーヒーを飲みながらそういって笑った。
澤田先生はまだ三十代前半の若手だが産婦人科の専門医で周囲からの信頼も厚い。実家はやはり産婦人科医院だそうで、彼の兄弟も親戚もみな医者だと言う。
「全くです。私なんかよりもっとまじめな人たちばかりだと思います」
夏海がそう言って熱く苦いコーヒーを啜ると同じ仕草でコーヒーカップを口元に運んだ後に目を細めて笑った。その穏やかな笑顔に大人、と夏海は思う。
「幻滅されるかもしれないけど、僕の周りは、親が医者だからなんとなく医者にっていう人間は多いよ。専門を選ぶにしても同じ。僕だって実家が皮膚科なら皮膚科医になってたかもしれない。たまたま産婦人科医だったから自分も同じ道に興味を持ったわけで。深刻にならなくても、目の前のことに精一杯取り組めればいいんじゃないかなあ」
とても冷静に、でも思いやりを持ったように、まるで患者に接するような笑顔で彼は言った。
「励ましてくださってありがとうございます」
夏海は頭を下げた。澤田先生は、あたりまえのように親切で丁寧に接してくれる。先輩として医師としてあるべき姿、というのを見せてくれる気がする。
そして今の自分を肯定してくれていた。大丈夫、問題ない。間違っていない。はっきりと言葉にしなくても、そういうメッセージを感じた。
「今度おいしいものでも食べに行こう。エネルギーつけないと」
再びありがとうございます、と頭を下げた。澤田先生には、何度かそう言われたことはあった。社交辞令と後輩への気遣いがほとんどだろうと思いながら、夏海は軽く笑って医局を出た。この後も、家に帰ってからも、やることはたくさんあった。
自分を気にかけてくれる人がいることは、やっぱり嬉しいものだと思う。特に澤田先生のように自分の希望とする進路の先輩からの言葉は参考にもなるし励みにもなる。堂々と仕事をしている姿はやはり頼もしく見える。
澤田先生は独身だ。大学院も出ているらしいし、20代の頃は恋愛や結婚どころじゃなかったのかもしれない。
平均的な身長と体型で、それはいい意味で普通で、上司にも後輩にもやはりいい意味で普通の対応で、清潔感があって、初めて顔を合わせたときから印象はよかった。彼女がいるかどうかはわからないが、密かに狙っている職員も多いと聞く。
周囲の評価はどうあっても、彼自身は頼りにされて、患者さんに喜んでもらえて、きっと充実した日々を送っていて、寂しくなんかないんだろうなと思う。そういうふうに見えた。自分がそうなりたいかどうかは、なんともいえないが。
白衣を脱いでふと更衣室の鏡で見た自分の顔はまるで亡霊のように血の気がなくて、チークでも塗ろうかとも思ったが、どうせ家に帰るだけだしと思って、さっと身支度をして職場を出た。
肩にかけたショルダーバッグは相変わらず重くて、足取りも重くさせる。迷いながらもやっていくしかない日々は、見えない何かを消耗させる。でもしっかりしなくちゃとは思っている。
道端で通りすぎてゆく若い女の子のスカートのすそが揺れて甘い香りが漂った。
かわいいな、と思いながら夏海はそのまま歩く。歩きやすいスニーカーで、着心地のいいシャツとデニムを身に着けて。手で整えただけの髪の毛を風になびかせて。それでもいいと言ってくれるたった一人が欲しいと思った。
全部知って、それでも、そのままの私を必要だと言って欲しかった。