いつかのエチュード
曖昧な気持ちを抱えたままでも物事をうまくこなせるほど夏海は器用ではなくて、案の定のミス、もちろん小さなものではあったが、小うるさい指導教員の伊藤には許せるものではなかった。
せっかく午後から自由になれるという土曜日一時間にもわたる説教に疲れきった夏海が重い足取りで駅まで歩いていたときだった。
「説教くらった?」
和樹の声だった。振り向くと夏の日差しを受けた彼の笑顔はまぶしく輝いていた。
「相変わらず、元気ねえ。」
うつろな眼差しでじろりと見つめると和樹は、困ったように眉をひそめて遠慮がちに微笑んだ。
「夏海は、だめっぽいな。わかりやすい」
「疲れたのよ」
「伊藤か」
その名前を聞いて再び落ち込みそうになる。当然、原因は自分にあることもわかっていた。大なり小なり自分がミスさえしなければ、あれほど嫌味を言われることはなかったのだ。もちろん、大事なことではある。小さなミスでさえ医療の現場では取返しのつかないことになるからだ。
そして何よりそんな小さなミスをする自分にも嫌気がしていた。責任感を持っていないつもりはなかったのに、でも心のどこかで甘えがあるのだろうか、と。同じ場に居合わせた澤田先生はフォローしてくれて、伊藤先生がいなくなった後も夏海を励ましてはくれたものの、そのあと二人で食事に行く気分にはとてもなれなかった。
重い足取りで駅までをのそのそと歩く。真夏の日差しは容赦なく夏海を痛めつける。グレーのアスファルトを眺めながら言う。
「私、医療の現場に向いてない気がする。雑な性格だし、適当だし、いい加減だし。もっとおおざっぱな仕事についたほうがいいかもしれない。」
眩しい太陽にもうんざりするほど疲れきっていた。責任のない仕事はもちろんない。でも、医療は、あまりにも他人の人生に関りすぎる。背負うものが重すぎる。自分のような人間が携わっていいのだろうかと思っていた。素直な気持ちを吐露するなら、苦しかった。もっと言ってしまえば、怖い、とも思っていた。
本当に研修医の今を楽しいって言える?本心で、楽しんでいるって言えるの?と心の中で和樹に対して思いながら並んで駅まで歩いた。
しばらくの沈黙の後、和樹は言った。
「生演奏でも聴きに行く?」
「え?」
唐突であり、これまでの会話とまるで無関係の彼の言葉に夏海は目を丸くする。生演奏?音楽を聴きに行くなんて全く考えてもいなかった。ここのところずっと。空は夏らしく爽やかなブルーでそこにいた。
「そう。今日、まだはやいし。たぶん大丈夫。絶対、いい気分転換になる」
そういって、和樹はどこかに電話をして、OKと私に笑って指先でマルを作って見せた。
通りかかったタクシーを拾う。たどり着いた行き先は目白のマンションだった。