いつかのエチュード
「こんにちは、いらっしゃい」
そういって玄関を開けてくれたのは目鼻立ちのはっきりとした美しい女性だった。胸元まであるたっぷりのロングヘアを揺らして花のように明るく笑顔を見せてくれた。同じロングヘアでもなんだか自分と違う、と夏海は思った。柔らかくて甘い香りのしそうな、きれいな髪の毛だった。
「いきなりの連絡で驚いたわ」
女性は和樹に向かって少し飽きれたように、でも嫌味なく言った。
「わりー、わりー。でもさ、どうせ今日は兄貴遅いかなって思って」
「そうね。ありがとう。おかげで退屈しなそうだわ。夕食も食べて行ってくれるんでしょう?シャンパン冷やしてあるの」
女性のやりとりを聞きながら、もしかしてと思っていると、和樹が私に言った。
「夏海、紹介する。兄貴の奥さんの瑛子。瑛子、こっちは、俺の同僚の夏海。大学からずっと一緒なんだ」
「はじめまして」
瑛子に挨拶をされると、夏海は戸惑いながらも「はじめまして」を返した。今までに、出会ったことのないタイプの人だと思った。時間とか数字とか評価とか、大多数の人が追われる大変なことと無縁のところで生きているようなかんじ。別次元で生きている、なんて表現は大げさかもしれないけど、一言で言うならば、呑気、という感じだろうか。
そういえば音大出のお嬢さんって言ってったっけ。きっと不自由なく暮らしてきたのだろうと思う。わがままな一人娘だなんて和樹は言っていたけど、嫌な感じは少しもしなかった。
「第二土曜日は主人は別の病院に行っていて、帰るのが遅いの。だから遊びに来てもらえて嬉しいわ」
そういって瑛子が笑った。
「主人だって。人妻ぶっちゃって。遠慮しなくていいよ。いつも通り名前で呼べば?」
和樹はまるで自宅でくつろぐかのように早々に食器棚から出したグラスにミネラルウォーターを注いでいた。
瑛子が「余計なこと言わないで」と言いつつ、ティーセットをテーブルに出す。金色で縁取られた美しい花柄のティーカップは、見ればすぐにわかる上質なものだった。
聞けば彼女は自分と同い年だというので夏海はとても驚いた。落ち着いていて、余裕があって、悪い意味ではなく、もっと年上だと思ったのだ。
リビングの片隅にはグランドピアノがあった。
「音楽がお好きだとかで。嬉しいわ。私も大好きなの」
瑛子がまるでどこかの国の挨拶のように両手を胸のところで重ねて、感激したように言う。たぶん‘音楽が好き’というレベルが何百倍とか、何万倍も違う気がしたが、そういった数字さえもどうでもよくさせる無垢な笑顔を瑛子はしていた。
「何か弾いてよ。ほら、ブラームスとか、いい曲あるじゃん」
お聞かせできるほどの演奏はできないかもしれないけど、と瑛子が笑う。でも何かお好きな曲があれば、と。
瑛子の言葉に、夏海はすぐに思いついた曲を口にした。
「あの、ショパンの、黒鍵のエチュードとかは」
瑛子は特に驚くことも嫌そうにすることもなく笑った。ピアノと言えばショパンというのは短絡的に思われただろうか。
「ショパンがお好き?」
「いえ、ただ、ずっと忘れられない曲というか、印象的で。子供のころのいつかの憧れというか。ただの練習曲かもしれないけど」
「ううん、そんなことないわ。黒鍵のエチュードを好きな人は多いわ。私もいい曲だと思う。弾くのは、どちらかというと苦手だけど」
瑛子は鼻と目の間にくしゃっと皺を寄せて笑った。
「あ、すみません」
慌てて夏海が言うと横で和樹が穏やかに笑った。
「瑛子はね、ブラームスとかシューマンとかドイツものが好きなんだよ」
でしたらブラームスをと夏海が言おうしたら「少しゆっくりで、間違っちゃってもよければ」と瑛子が笑ってショパンの楽譜を手にとって見せた。
目の前の女性は暮らしも外見も、何もかもが自分にとってはパーフェクトに見えるのに、少しも飾らない感じ。それがこの人の魅力なんだろうな、と夏海は思った。強がることも無理もしない。でもそのときできる最大限の努力で、今あるそのままを見せてくれる。素直、ということの魅力を改めて知る。夏海は「嬉しい」と思わず手を叩いた。
グランドピアノの前に座ると瑛子そっと鍵盤に手をのせて、すうっと一呼吸する。そして勢いよく指を動かした。目がついていかないほど早く動き回る右手が紡ぎだす音は、キラキラしている。光の粒が広がっていくようだ。掴んでおくことはできない一瞬のきらめき。温かみのある音色なのに、二度とはない一つ一つの儚さに切なくて、少し泣きそうにもなる。いつか焦がれた懐かしい音だった。
その次に和樹のリクエストでブラームスを弾いてもらって、お茶を飲んだ。とは言っても和樹はソファに横になりながらテレビを見ていて、瑛子と夏海だけが向かい合ってお茶を飲んでいる形になる。マスカットのフレーバーのついた甘く爽やかな紅茶はこの時期によく似合った。
「いいですね、こんな風に弾けたら楽しいでしょうね」
弾いてもらったブラームスの晩年のピアノ曲は切ないほど胸に残っていた。このような曲をリクエストする和樹は、もしかしたら自分よりもっとずっと成熟しているのではと思う。
時に苦しいほど愛おしい、と訴えているかのような曲だった。同時に、決して後悔しない、というような意思の強さも。
演奏のせいかもしれないがと思いつつ、部屋の端で堂々と艶やかに光るグランドピアノをもう一度眺めて、羨ましいと夏海が言うと、瑛子は笑った。
「それを言ったら、私は夏海さんが羨ましいわ。私の知らないことをたくさん知っていて、ご立派だわ」
そんな、まったくです。と夏海が言うと瑛子は金縁の美しいティーカップを両手で大切そうに包んで言った。
「みんなそれぞれちょっとずつできることとか得意なもの、好きなものが違って、それできっと世の中ってうまく回ってるんでしょうね」
甘い微笑み。愛にあふれた、温かい笑顔だった。
その瞬間、この胸はぎゅっと掴まれる。ハートを奪われる、という表現を確かに知る。損も得もない笑顔。どうしてこんなふうに初対面の人間に甘く、丁寧に微笑むことができるのだろう。やっぱり羨ましいと思った。自分にはできない表情だと思ったから。ねえ、今、この瞬間のこの顔を見なくていいの?いつも見てるから興味ないの?テレビをじっと見つめて少し笑う和樹にそう言ってやりたかった。
「だからね、ハンス・フォン・ビューローが練習曲と言っても、夏海さんにとって思い入れのある練習曲があってもいいと思うの。特別なものは人それぞれだわ」
瑛子の微笑みに、夏海も笑った。
誰が何と言っても自分にとって特別に大切なもの。それは、きっと本当に宝物なのだろう。
ただの、いつかのエチュードであっても。