いつかのエチュード
待ち合わせの店には、由香と夏海がほぼ同時に訪れた。
約束を取り付けた男は少し遅れるというので、先に二人でいただくことにした。

向かい合って座ってランチのセットをオーダーして、暇を持て余したように由香が世間話をし始めた。大学病院大変でしょう、とか。研修医はハードよね、とか。当たり障りのないことについて。

やがて話題に尽きた頃、何食わぬ顔で由香が言った。
「聞いた?」
「いえ、なにも」
「和樹のお兄さんと、ずっと付き合ってたのよ」
「えっ」
思わず手に取ったグラスの水をこぼしそうになる。
和樹の兄こそ会ったことがないものの、その妻の瑛子に会ったことのある夏海は動揺を隠せない。
「もしかして、博樹の奥さん、知ってる?」
博樹、というのが和樹の兄だというのは話の流れからすぐにわかった。知っているとも知らないとも言えないでいる夏海に、由香は笑った。
「かわいいんだってね。顔立ちは美人だけど、性格が、とてもかわいらしいんだって、人づてに聞いたわ。」
そして静かにミネラルウォーターを口に運んだ。
「彼女はきっと私にはなかったものを、持っているのだと思う」
そんなことはない、という顔をしたであろう夏海を見た由香は平気よ、と言うように笑った。
「私たちには、きっとないものを持っている方でしょう?」
会ったことのあるあなたならわかるでしょう、と、その目は言っていた。

思い出す。細長い指先。きらめく音色。甘い微笑み。たった一人の男性から全力で愛を与えられている女性。
一度会っただけではあったが、それはとても印象的な存在だった。
そして私たち、という言葉もまた、夏海にひっかかった。そう、そうなのだ。瑛子という人間は、こうしてキャリアや社会と闘う由香や自分とは人間とは別次元で生きている人間だった。どちらがいいとか悪いとかではなくて、とにかく、違ったのだ。
そしてその違いが、夏海はうらやましくも思えたのは事実だった。あんなふうに目の前に突然現れた自分にも柔らかく微笑んで温かいお茶を出してくれるような、その人柄すべてが。

やがてウェイターの持ってきた前菜のテリーヌを食べながら、静かに、独り言のように由香が言った。
「適当な気持ちで誰かを好きになるなんてことをしてきたつもりはないのにね。家業を継ぐとか地域医療への貢献とか、使命感だとか、そんなこと忘れて、たった一人のためにすべてを捨てられるくらいの情熱が自分にもあればよかった、と思うわ」
その表情は堂々としていて自信にあふれていて、美しい微笑みなのに、切なかった。

詳しい事情は知らなかったが、おおよそのことは理解できると思った。嫌いで別れたわけでなく、他の理由で東京を離れて故郷に帰った人なのだ、とわかった。同時に、とてもまじめで、誠実な人なのだとも。

左手に持ったフォークはまったく抵抗ないまま柔らかなテリーヌに刺さった。テリーヌはホタテと卵白がベースの軽い味わいで、アスパラガスの断面の1㎝ほどの緑のマルが中央に三つ並んでいた。
「白ワインが欲しい味ね。少し飲まない?」
由香にそう言われて、わかります、飲みましょう、と夏海は言って、ウェイターにグラスワインを2つ頼んだ。ワインはすぐに運ばれてきた。女医の未来に乾杯、と由香が笑ってグラスを傾けて、夏海も微笑んで軽くグラスを重ねた。今日のグラスワインという爽やかな南仏の白ワインは飲みやすくておいしかった。
好きな男のためにすべてを捨てられるくらいの情熱があれば。
そう思いながら大切なものを手放した、その苦しみを、少しでも分かち合いたいと夏海は思って淡いライムイエローの白ワインを口に含む。

その五分後にやってきた男は陽気で、明るくて、この場の湿っぽさをすべて吹き飛ばした。この男が少しだけ邪魔だと思うくらいに、夏海は由香との時間を貴重に思った。
かつて全力で愛し合った恋人の弟を前に、彼女はどんな気持ちでワインを飲んでいることだろう。

話によると和樹とそのお兄さんは、背格好などやはり兄弟らしく似ているらしい。でもきっと、だめなのだ。和樹では彼女は満たされないのだ。たとえ血がつながっていても、同じ仕事をしていても、どんなに似ていても。その特別なたった一人でなければ意味がないことなのだ。

夏海と和樹は午後四時に東京駅で由香を見送った。
改札をくぐって一度も振り返らないあたりにこの人の性格を感じる、と思いながら、夏海は和樹と並んでその華奢な後ろ姿を見つめた。

その後ろ姿がエスカレーターを登って言って見えなくなったとき、夏海は言った。
この後どうするの?私は医局に荷物を取りに行くけど、と言うと、和樹はまた何かを企んでいる少年のように笑って言った。
「兄貴のところ」
兄貴、と聞いた瞬間、会ったことのない彼の兄弟より、その妻の瑛子の顔が夏海には思い浮かんだ。
「お邪魔じゃないの」
「邪魔しに行くんだよ」
この会話を、いつかしたことがあった。あのときは瑛子の微笑みや演奏を知る前だった。あの甘く温かい笑顔、きらめく音色。それを知ってしまうと、決して知らない自分に戻ることはできない。目白のマンション、金のフチのティーカップ、リビングに置かれたヤマハのグランドピアノ。
美しい女性の記憶と目の前の同僚の笑顔が重なっただけで、どうして今はこんなに胸がざわめくのだろう。

バッグを持った手と反対側の手をそっと胸に当てて、そっと安心を得て、夏海は少年のように笑顔で手を振る男と丸の内線のホームで別れた。

< 9 / 14 >

この作品をシェア

pagetop