耽溺愛2-クールな准教授と暮らしていますー
[1]


今朝は怜に『いってらっしゃい』が出来なかった。
美寧が彼の説明もろくに聞かず、一方的に拒否して部屋に籠ってしまったせいだ。

美寧はあれからずっと後悔していた。怜にちゃんと『いってらっしゃい』が出来なかったことを。
どんな時でもちゃんと“見送り”をしようと決めていたのに、それを自分で破ってしまった。

怜が出掛ける前に『今日は昨日と同じくらいに帰れる』と言っていたから、その時にちゃんと『ごめんなさい』を言おう。
仕事で疲れているだろう彼に、何か温かくて美味しいものを食べてもらって、そして怜がどうしてあんなことを言ったのか、その理由をきちんと聞かなければ。
そして、自分の気持ちもちゃんと言うのだ。『ずっとここにいたい』と。

そう思って、マスターに美寧一人でも作れそうなメニューが無いか相談した。

マスターが教えてくれたのは、“サバ缶カレー”。
包丁も火も使わないのでこどもでも出来るというそれは、実際にマスターが、杏奈が子どもの頃に教えたものだという。

マスターに貰ったレシピのメモを片手に【スーパー徳安】で材料を買い、ついでに立ち寄った他の店から出た時、外は時間の割に暗かった。

そして今。空を覆い尽くした分厚い雲からは、ひっきりなしに雨粒が落ちてくる。

急いで帰って、怜の為に“サバ缶カレー”を作るんだ。

美寧は雨にも暗さにも負けないくらいの気合を入れていた。

それなのに———


***


美寧の手を掴んだのは、まったく知らない男だった。

“中年”と呼ばれるのがしっくりくるようなもったり(・・・・)とした体つきのその男は、驚きと怯えの入り混じった顔で固まる美寧を見つめニヤリと口の端を上げた。

「そんなに走ったら転んでしまうよ」

一見すると優しく心配するような言葉なのに、美寧の背筋がぞわっと粟立った。

掴まれた腕を解こうと、引いてみるがビクともしない。更に力を込めて握られ、分厚いコートを着ているのにも関わらず男の指が食い込んでくる。

思わず「いたっ」と声を漏らすと、「ああ、痛かったの?ごめんね」と口にするがその手を放す気配はない。

「は、…離してくださ…い……」

絞り出すようにそう言った美寧に、男は腫れぼったい一重の瞳を細くたわませた。
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