年下ピアニストの蜜愛エチュード
 エントランスの前に立ち、千晶は手に持ったチケットを見直した。

 いくら確認しても、日にちも、時間も、もちろん会場も間違っていない。確かに今日この『ベリーヒルズ・ホール』で、アンジェロのリサイタルが行われることになっているが――。

「どういうこと?」

 ふつうなら開演三十分前ともなれば、すでに大勢の人が集まっているものだ。

 ところが周囲には誰もおらず、そもそもリサイタルの看板さえ出ていなかった。それでいてホールの扉は大きく開かれ、内部も明るくて、今にも演奏会が始まりそうな雰囲気が漂っている。

(私、どうすればいいの?)

 千晶は大きな花束を抱えて、途方に暮れていた。

 今日着ているオレンジのワンピースは、以前チャオチャオのオープニングパーティー用にアンジェロが買ってくれたものだ。彼に敬意を表したくて、せいいっぱいおしゃれをしてきたつもりだった。

 それなのに笑顔で出迎えてくれるスタッフもいなければ、花束を預けるクロークも無人だ。いくらチケットを持っているからといって、そんなところへ入ってもいいのだろうか?

(帰った方がいいかしら?)

 やはり手違いがあったのかもしれないと思い始めた時、背後で足音が聞こえた。

「誰?」

 反射的に振り返ると、黒のタキシード姿のアンジェロが歩いてくるのが見えた。

「ボナセーラ、千晶」

「……アンジェロ?」

「ようこそ、僕のリサイタルへ。そのワンピース、着てくれたんだね。とてもよく似合うよ」

「あ、ありがとう。あの、あなたにお花を持ってきたの」

「グラッツェ、千晶。いい香りだね」

「こちらこそご招待ありがとう」

 千晶の困惑には気づいているはずなのに、アンジェロはごく自然に振る舞っていた。無人の会場をいぶかしむ様子もなく、花束に顔を寄せて、うれしそうに笑っている。

「それじゃ演奏会は本当にあるのね?」

「もちろん」

「でも、ここには私たちの他には誰もいないけど」

 千晶の問いかけに、アンジェロは「そうだね」と大きく頷いた。

「僕たちだけだよ。今夜の観客は君ひとりだから」
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