年下ピアニストの蜜愛エチュード
 瞬間、千晶は素に戻った。本来あるまじきことだが、コンサートという単語にファン魂が思いきり反応してしまったのだ。

「すてきですね。私もアンジェロさんの演奏が大好きで、いろいろ聴かせていただいて……あっ!」

 千晶は仕事中であることを思い出し、慌てて謝罪した。

「も、申しわけありません。つい脱線してしまいました。あの――」

 その先が続けられなかったのは、微笑んでいたアンジェロが急に真顔に戻ったからだった。

「どれです?」

「えっ?」

「教えてください。三嶋さんは、僕のどの演奏が一番好きですか?」

 アンジェロはまっすぐに千晶を見つめている。憧れ続けていた相手から、まさかそんなことを訊かれるとは思いもしなかった。

「私が好きなのは、えっと……」

 千晶は眉を寄せて考え込んだ。

 ラフマニノフ? それともチャイコフスキーだろうか? いやいや、やっぱりショパンがいい。でもショパンの曲だっていろいろあるし、やっぱりコンチェルトは捨てがたいけれど……。

 CDでしか聴いていないが、アンジェロの演奏はどれも本当にすばらしい。千晶が即答できなかったのは、本気で迷ってしまったからだ。

「一番好きなのは……」

 だが結局、答えは返せなかった。

「もうけっこうです、三嶋さん」

「えっ?」

「おしゃべりはこれくらいにして、そろそろ検査の説明をしていただけますか?」

「あ、は、はい。わかりました」

「午後に予定がありますので、よろしくお願いします」

 質問してきた当の本人から、会話を打ち切られてしまったのだ。

 硬い表情と平板な声は、さっきまでと全然違う。

 アンジェロの態度が変わったせいか、ちょうどよく設定されているはずの室温まで、ぐっと下がったように感じられた。
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