ふたりぐらし -マトリカリア 305号室-

そこから発せられた声は、小さかったが、——けれどしっかりと、俺の耳に届いた。


「ちゅーして」


心臓が、一際大きく跳ね上がった。

痛いくらいだった。


「っ、おい……」


そんなこと、したら——。


「だめ?」


甘えるように訊かれて、一瞬、目がくらんだ。


……ほんと、ここまでくると凶悪だな。


必死に頭で言い聞かせながら、忙しなく動く心臓を落ち着かせる。


……証拠を、あげるだけ。
ただそれだけ。

そうすれば、愛花は満足してくれる。

今いる場所が、自分の家ではないことが、唯一の救いだと思った。

こみ上げてくる衝動に耐えるように、前髪を乱して——、


「……ませガキめ」


精一杯の悪態をついてから、俺は愛花に顔を寄せた。
< 229 / 405 >

この作品をシェア

pagetop