ふたりぐらし -マトリカリア 305号室-
……おいおい。
これで歩いて帰ってきたわけ。
連絡してくれれば、タクシー使って迎えに行ったのに……。
「明日、病院に行こう。俺も付き添うから」
「……ん」
返ってきた声は、弱々しいものだった。
伏せられた顔を覗き込むと、涙が溜まった愛花の瞳に、ぎょっとする。
「……おい」
ぽろ、と頬へとこぼれた雫に、人差し指を添えた。
「……そんなに、痛いの?」
小さく首を振る愛花の目から、それを合図に、次々と涙が落ちていく。
……痛みからの涙じゃないなら、……この涙は、『康晴』との間にあった何かが、関係してるのだろうか。
先ほど、あいつに感じた、妙な敗北感が蘇る。
『必死に背伸びしてるのに、樫葉くんまで大人であろうとしたら、愛花ちゃんはもっと背伸びをしなくちゃいけなくて、すごく疲れることになる。もう少し、歩み寄らなくちゃ——』
杉本さんの声が、追い打ちをかけるように、耳の奥で響いた。
……愛花が、俺への想いに、疲れを感じ始めていたら……。
そう考えるだけで、もどかしく、心が落ち着きをなくし出す。
決意が、ぐらぐらと危なげに揺れる。
……それでも、自分が守りたいものは間違っていないと思うのも確かだった。
忙しなくうごめく心をそのままに、俺はただ、溢れ続ける愛花の涙を、拭うことしかできないでいた。