命令~ソレハアイカ否カ~
第二章 宮原寺雪という女
クルーズ旅行からちょうど二か月後の今日、瑠菜の家はにわかに騒がしかった。雪の婚約者である征雪と両親との半年に一度の会食の日なのである。
会食は雪と、父と母、征雪、瑠菜の五人で行われる。瑠菜にとって、心臓がキリキリ痛む日だった。一度父親に会食に参加しなくてもいいか、尋ねたことがあるが、「養女と言えど、家族の一員であるから出席は義務であり、自分から瑠菜への愛の証でもある」とにべもなく却下されてしまった。
本当に愛があるならば、征雪が雪と並んでいるところを見るのがつらいという瑠菜の気持をわかってくれてもよさそうなものだが、父の命令は絶対であり、それが愛だと言われてしまったら言い返すことは到底不可能であった。
とんとん、と部屋のドアがノックされる。
「どうぞ」
声をかけると、ドアの先には雪がいた。
珍しいこともあるものだ、と驚いていると、
「ワンピースのフックを留めてほしくて」
と雪は淡々と要件を言った。
紺色のワンピースには、雪という名に似つかわしい白い肌が映えている。光の肌も白いが、どこか温かみをふくむ光の肌とことなり、雪の肌は青白く、陶器のようにすべすべしている。
真っ黒の髪をボブに切りそろえ、相変わらずの無表情に抑揚のない声だ。
もし他人として雪に出会っていたら、「怖い」という第一印象を抱いていたに違いない。
雪は、自分が征雪の事を好いているのを知っているのだろうか。たとえ知っていようといまいとも、なにも態度を変えることはないだろう。
瑠菜は、あまり雪とは会話しない。いや、雪は誰に対しても口数が少ないし、笑わない。例外と言えば征雪ぐらいだ。
征雪は持ち前の明るさで、雪のことすら笑わせる。だが、笑うと言ってもせいぜいくすくす、といったところで、果たしてこの異母姉妹は大声をあげて笑うのだろうか、というのが瑠菜の積年の疑問であった。
フックを留めると、ありがとう、とだけいって雪は部屋を出ようとした。
「あの」
瑠菜は無意識のうちに雪を呼び止めていた。
「なに?」
眉一つ動かさない無感情な表情。
「雪はさ、まーくんのことどう思っているの」
女子高生の恋バナのような聞き方をしてしまったことを瑠菜は悔いた。同時に、ずっと気になっていたことがきけて胸に少しの爽快感が生じたことを感じた。
雪は眉をつと上に動かすと
「どうって、征雪さんは婚約者だわ」
全く声のトーンを変えずに答えた。
婚約者。光に身を委ね、征雪の事を諦めよう、忘れようという気持ちが初めて生まれつつあった瑠菜の心にも、ちくりとささった。
「そんなこと知ってるわ」
雪は、目の前の異母姉妹がなにを尋ねたいのかがいまいち理解できていないようだった。
「だから、その、まーくんが婚約者でよかった、とか反対に違う人が良かった、とか」
ずいぶん俗っぽいことを聞くのね、と雪の眼は訴えていた。
「さあ、初めから決められていることだから、それについて深く考えたことはないわ」
雪の答えはあっさりしたものだった。
それ以上何も聞くことができずにいると、フックありがとう、とだけ告げて雪はさっさと部屋から出て行ってしまった。
初めから決められていること、つまり雪にとっても父の命令は絶対ということなのだろうか。
ならば、征雪の方は雪の方をどう思っているのだろうか。今までついぞその質問を征雪にしたことはなかった。
聞くことが怖かった。雪と征雪が仲がいいのは知っている。小学生の時一度だけ、雪と自分のドットの方が好きか聞いたことがあるが、「どっちも大事だよ」と笑われてしまって以降、二度と征雪の前で雪の名前を出したことはなかった。
征雪のことはいつかすっかり諦めなければならないことは知っている。光という存在がいる今なら「雪のことどう思っているの」と聞く勇気が湧いてきそうな気がした。
会食のあと聞いてみよう、と瑠菜は決心を固め、どう親や雪に怪しまれず征雪と二人きりで話す機会が設けられるか考えた。
そうだ、大学にかこつけるのがいい。瑠菜と征雪は同じ大学の文学部なのである。瑠菜はあまり第二外国語であるフランス語が得意ではないが、来月には春学期の期末テストが控えている。征雪もフランス語選択なので、聞きたいことがあるという名目でカフェにでも誘えば親が見ていても訝しむことはないだろう。
雪も雪で、征雪と瑠菜が二人きりになることに対して今まで嫌な顔一つしたことない。
あるいは瑠菜の気持に気づいていながら、婚約者という決して覆らない契約がある故口を出さずにいるのだろうか。

無事世にも気まずい会食が終わり、カフェに征雪を誘い出すことができた瑠菜は、ひとまずのミッションの成功に安堵した。
「なんか、変わった?」
征雪は瑠菜の顔を覗き込んだ。征雪は昔からどちらかというと筋肉ばか、というタイプだが妙なところで鋭い。
「いや、そんなことないと思うけど」
瑠菜はとっさに否定した。光との出会い以降確実に瑠菜は変わったはずだが、なぜかそれが後ろめたく感じた。征雪が自分に対してなにか特別な感情を持っているわけではないのは重々承知なのだが、知られてはいけないような気がする。
相も変わらず毎週水曜日には光と会い、真夜中の電話は続いていた。
言いたくない、知られたくない、ではなく知られてはいけない、という感情がわいたことに瑠菜は疑問を抱いた。征雪のことが好きならば、知られたくないと思うのが自然なのではないか。
「そうか。なんかあんまり元気がないっていうか。いつもはもっとはつらつとしてる気がする。うまく言えないけど」
はつらつとしてない。自覚はなかった。瑠菜の気づかないうちに、光の自分の意思を奪う甘美な「命令」は瑠菜の生気を吸い取っていた。
瑠菜は息を吸い込んで、本題に入ることにした。
「あのさ、雪のことなんだけど」
「雪ちゃん?」
征雪は瑠菜のことは呼び捨てにするが、雪のことはちゃん付けで呼ぶ。年下だからなのだろうか。昔から雪の方が大事に名前を呼ばれているようで、羨ましかった。初めて光にちゃん付けで呼ばれたときに嬉しかったことを思い出した。
「雪の事、どう思ってるのか、この際いい機会だから聞いてみようと思って」
一息に言い切った。
「どうって…」
征雪は少し困った顔をして頬ほかいた。
「雪ちゃんは、頭もいいし、美人だと思うよ。たまに作り物みたいにきれいで驚くこともある」
そういうことが、聞きたいんじゃない。雪が頭がよくて、美人なことぐらい知っているのだ。昔から瑠菜は勉強が得意な方ではあったが、雪に勝ったことはなかった。瑠菜は文系、雪は理系で高校生になってからは比べられることは少なくなったが、それでもやはり、国立大学に合格した雪の方が上だというのは周知の事実だった。
それだけではない。瑠菜は昔から自分のくせ毛がきらいだった。それに比べて雪はさらさらのストレートなのだ。くせ毛の自分にはボブカットは似合わない。誰かが、ショートカットが似合う子は本当にかわいい子だ、と言っているのを聞いてから髪を梳かすたびにコンプレックスが刺激されるのだ。ショートカットが似合う雪は本当に可愛くて、似合わない自分はそうではない。
さまざまなコンプレックスが瑠菜の中には渦巻いている。誰かに伝えたら、もっと惨めになりそうでずっと自分の内に秘めている。
こんなめんどくさい自分が瑠菜はずっと嫌いだった。
「そうじゃなくて、婚約者として」
征雪は、困った顔をしている。
「ごめんなさい、困らせたくて聞いたわけじゃないの。ほんの、興味よ」
征雪の気持を和らげようと、軽い口調でそういった。
「雪ちゃんは、正直俺にもったいない女の子だと思うよ」
そういって、征雪は一呼吸置き、目線を下げて静かに告げた。
「自分の意志で、決めたいっていう気持ちも確かにある」
瑠菜には衝撃的な答えだった。雪のような美人が婚約者なら手放しで喜ぶものだろうということに疑いを抱いたことがなかった、ということに今更気づいた。
もし、自分の意志で決められるのなら、あなたは誰を選ぶの?
その問いが体中を駆け回り、のど元を突く。
「俺、大学卒業したら父親のグループ会社のホテル経営を任せられることになったんだ」
征雪が経営を継ぐホテルと言ったら、海外にも企業展開している超高級の会員制ホテルだ。
「そっか、大変だね」
ひとごとのように言った。たしか、そのホテルはイタリアのヴェネチアにもあったはずだ。雪は外国語が得意で、英語、フランス語、イタリア語が話せる。たしかイタリア美術が好きなのがイタリア語を学ぶきっかけだったとか言っていたから雪との結婚式はそこでやるのだろうか。
アーチ形の赤煉瓦の端、揺れるゴンドラ。素敵な風景が浮かび上がる。
自分もそんなところで結婚式を挙げてみたい。光ならかなえてくれるのだろうか。
聞きたいことを聞く勇気が出ず、とりとめもないことばかり考える。
「俺なんかのことより、瑠菜の方が心配だけどな。ちゃんとメシ食べてるか?」
そんなに自分は元気がなく見えるのだろうか?

結局最後まで聞きたいことは聞けず、お開きになり、恒例の光との電話の時間になった。
「ふうん、それで、気まずい会食とやらは終わったんだね」
今日の話を光にすると、雪や征雪という存在に興味を示した。
「異母姉妹とその婚約者ね。で、その婚約者が瑠菜ちゃんの昔からの想い人、と」
光の前で瑠菜は隠しごとをしないようになっていた。
「まーくんは、本当だ誰といたいんだろう」
「さあね」
興味もなさそうにつぶやくと、
「そろそろ、瑠菜ちゃんの御両親に挨拶にいかないとね」
「え、私の両親?」
「結婚する予定でいるんだから当たり前でしょ」
初対面から結婚して子供が欲しいと申し込まれたので、付き合っている感覚はなかったのだが、言われてみれば毎週あってほぼ毎日電話をしているのだから彼氏といっても差し支えないのかもしれない。
「ねえ、わたし達って付き合ってるんでしょうか」
「そのつもりだったけど…」
驚いたように光は答えた。
あ、付き合ってるんだ。心の中でつぶやいた。
そういえば、父親に「命令」がうまく遂行できそうだと報告しなければならない。「命令」を下されて以降、いつもの事だが、父親とまともに会話をしていないので、そろそろどうなったか聞かれる頃合いだろう。
「お父さんに、挨拶に行ってもいいか聞いといてもらってもいいかな」
「わかった」
そう瑠菜が答えると、光は安心したように、「もう僕がいるからさみしくないね、子ども楽しみだね」といつものように繰り返し囁いた。

昨晩光と約束した通り、父親に挨拶の約束を取り付けようと父の書斎の部屋をノックする。
「お父様、よろしいですか」
「入れ」
父親はパソコンに向かっていつものしかめつらをしていた。瑠菜は父親より何を考えているのかわからない母親の方が苦手だった。血のつながりもあるからだろうか、父の方が話しやすい。
「北原田さんのことについてご報告をと」
父親はパソコンから目線を上げ、ああ、うまくいったかね、と尋ねた。
父親にそのつもりはないのだろうが、どこか高圧的に聞こえて、瑠菜はいつも委縮してしまう。
「うまくいきました。結婚を前提にお付き合いをしているのでお父様に挨拶に伺いたいとおしゃっていました」
うむ、と満足そうにうなずくと、
「この命令も、お前にとって悪い話ではなかったろう」
この命令は愛情故とでもいいたいのだろうか。じゃあ、お父様は雪に命令したことある?とささやかな反骨真が芽生えたが、父のいかめしい表情を見ているとすぐにしぼんでいった。

約束の日はやってきた。
光は基本的に人当たりがよいので、両親ともに満足そうだった。父親も母親も、これでベリーヒルズビレッジの収益が将来的にすべて宮原寺家のものになることにたいして喜んでいるようだった。
しかし、瑠菜は光がちらちらと雪に視線を向けていることに気が付かずにはいられなかった。
一度気になってしまえば、普段からコンプレックスを抱えている瑠菜の気持は爆発寸前だった。
対する雪が、光に何の興味を示さないこともまた、瑠菜のコンプレックスを刺戟した。
その不安や不満は、光と車で二人っきりになった時についにこぼれだした。
「ねえ、なんで雪のことちらちらみてたの」
「そう?」
光はすっとぼけた。
「しらばっくれないでよ!」
瑠菜は自分の声が予想以上に大きかったことに自分でも驚いた。
「瑠菜ちゃんの気にし過ぎだって」
気にしすぎ?そういわれればそうな気もする。雪に対する自信のなさが光が雪に特別な興味を示したなどという妄想を見せているのだろうか?
「気にしすぎだよ、ね」
そうなんども囁いて、それ以上の反論を許さないというように光は瑠菜に口づけた。
そうやって甘やかされると、自分が間違っていたかのように思える。
瑠菜はこの不安の正体に盲目になることにした。

会食の日にカフェに誘って以降、毎日のように征雪からメッセージが届く。元気か?メシ食べてるか?など、深いところには触れない、瑠菜を気遣う内容のものがほぼだった。
光といると、安心する。この人に委ねていれば万事うまくいく、そんなふうに思う。どのような形であれ自分が必要とされているという事実は瑠菜の中に潜む孤独や自信のなさを埋めるものだった。初めは冷たいと思った「命令」やら遺伝子やらなんやらも、きっとそれは光の愛の形なのだろうという自分にとって一番都合のいい解釈をするようになり、それを信じて疑わなくなった。それと同時に、不安になる。相反する感情だけれど、確かに不安になるのだ。今、瑠菜は自分の存在意義を光に委ねていた。自分という人間が生きる意味を自分で見いだせなかった瑠菜は、その唯一の供給元である光がもしいなくなってしまったら、自分に興味を持たなくなったら、とそら恐ろしい気持ちになる。
足元がぐらつき、足場が急になくなって奈落の底に落ちていくような感覚を味わう。その感覚が瑠菜を襲う間隔は、着々と短くなっている。
発作的に不安になり、心臓が暴れるのだ。
そんな時に毎日届く征雪からのメッセージは惨めになる。どんなに優しくしてくれたとて所詮征雪は雪のものなのだ。自分のものにはならないし、征雪は優しいから自分の事を気にかけてくれているに過ぎない。
その反面、うれしいのは確かだった。光という存在に囚われた今、征雪に対して恋愛感情とは違うけれど、自分がずっと好きだった人はこんなにも優しい人なんだ、と少し誇らしくもある。
「そういえば、彼氏できたんだって?おめでとさん」
とメッセージが来た。
まだ征雪には話していないから伝えたのは雪だろう。雪が瑠菜についての話を征雪にするなんて意外だ。
「どんなひとなの?」
と追加でメッセージが届く。どんなひと…。どんな人とも言い難い。なんて返信しようか考えあぐねていると、征雪から電話がかかってきた。
「急に電話なんてどうしたの?」
「いやあ、元気かな、と思って。前会ったとき元気ないように見えたから」
やはり、征雪は優しい。
「そうそう、彼氏できたんだって?雪ちゃんから聞いた」
「まあね」
「どれくらい付き合ってるの?」
どれくらい。そういわれても難しい。一体いつから付き合っているのだろう?
「四か月くらい…?」
自分でもわからなかったので、とりあえず出会った日を初日として換算した。初対面で告白されたし、あながち間違ってはいないだろう。
「じゃあ、前会ったときに元気なかったのはその彼氏と喧嘩でもしたから?」
「けんか?けんかなんてしたことないよ」
今日のことも、自分が一方的に気持ちをぶつけただけで喧嘩ではなかったと瑠菜は判断した。
< 2 / 2 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop