君からのラブレター
「もうすぐ、藍ちゃんの命日だね……」
電話越しの姉貴の言葉に、一瞬にして過去に引き戻される。
「もちろん戻って来るんでしょ？ 恵一」
「僕も大学やバイトで忙しいんだよ、まだ分からないな……」
「恵一、たまには帰って来て、おばあちゃんを安心させてあげなさい」
「そうだな、都合付けてみるよ、じゃあね」
これ以上話すと姉貴に色々お説教されそうなので、早々に電話を切る。
スマホを机に放り投げつつ、ベットに仰向けになる、
ぼんやりと狭いワンルームの天井を眺める。
「あいつの七回忌か……」
そのまま、虚空を見つめ物思いに耽る。
僕、香月恵一《かつきけいいち》は都内の私立大学に通う十九歳だ、
自分で言うのも何だが、平凡な人生を歩んできた、
小、中、高と出来の良い姉貴、香月未来美《かつきみくみ》がいたお陰で、
香月の弟と言う呼び名が定着していた。
何故かと言うと、姉貴は成績優秀、スポーツ万能、
その上、美人と三拍子揃った僕の田舎でも有名な才女だった。
いつも姉貴の後ろを金魚のフンみたいについて回ってたっけ……
だから、子供の頃から友達にも先生にも、香月の弟と呼ばれていた。
それに僕も疑問を抱かなかったんだ。
でもあいつだけは違ったんだ……
「君は香月の弟って呼び名じゃないよ、恵一君」
夕暮れの河原で、にっこりと微笑みながら彼女は僕に言った……
肩までの真っ直ぐな黒髪に、夕陽が反射してコントラストになり、
肩越しの水面の反射と相まって、彼女の笑顔が輝いて見えたんだ……
僕の実家は都心から電車で二時間位、適度に都会で適度に田舎だ、
やっとコンビニが近所に出来たとおばあちゃんが喜んでいたっけ。
そのおばあちゃんにも最近、顔を見せていない、
東京に出る時、一番心配したのはおばあちゃんだった、
母を幼い頃病気で亡くした僕達を、母親代わりに育ててくれたのも、
おばあちゃんだからだ。
本当は帰省して安心させてやりたいが、
気が進まないのはあいつの法事があるからだ……
記憶の深い澱の中に刺さったままのナイフのように、
今でもあの日の事を思い出すと胸が痛む、
あの夏の日、亡くなった二宮 藍《あい》の事を……
藍は僕達、姉弟のお隣さんだった、
僕と同い年という事もあり、三人で近所の野山を駆けずり回ったっけ、
女二人、男一人、多数決でかくれんぼではいつも僕が鬼だったな、
定番の遊び場所は近くのお稲荷さんで、そこにある村の集会所が
僕らの秘密基地代わりだった。
普段、あまり使われていないので、自由に出入りして、駄菓子を食べたり、
携帯ゲームをやったり、学校帰りには何時も直行していたな。
小学四年生のある日、いつものように三人でかくれんぼを始めた、
珍しくじゃんけんで負けた姉貴が鬼で、
むくれながらも目を瞑り、カウントを始めた。
僕と藍は急いで隠れる場所を探した、
集会場と神社の間の通路下に、子供二人位なら身を隠せるスペースが
ある事に気がついた僕は、藍を促してそこに隠れた。
カウントが終わり、姉貴が鬼の掛け声を上げつつ、探し回る気配がする、
僕と藍は狭いスペースで身体を密着させていた、
彼女の息使いまでこちらに伝わってくる、
彼女の長い髪が俺の頬に触れた、妙なくすぐったさと同時に、
ほのかなシャンプーの香りが鼻腔を突く。
その時だった、急に僕の中で何かか変わった……
今まで女の子と意識した事が無かった藍、
その真剣な横顔をチラリと盗み見る、
僕の顔は耳まで真っ赤だったに違いない。
何故、今まで気がつかなかったんだろう、
彼女が可愛いと言うことに……
藍と密着する肩口のシャツが妙に汗ばむのが分かる、
慌てて彼女と距離を置こうとして派手に物音を立ててしまう。
「恵一！藍ちゃん！ みっけ！」
夏の暑い境内に姉貴の声が響いた。
その後、藍を異性として意識してしまった僕は放課後、
神社の秘密基地に通うのをやめた。
我ながらガキだったなぁと今なら思えるが、小学四年生の僕は
初恋という初めての感情に戸惑っていたんだろう……
藍とも距離を置き、誘われてもぶっきらぼうに答えていた、
その時の彼女の寂しそうな表情が忘れられない……
大好きの裏返しで、学校で色々意地悪もしてしまった。
きっと嫌われているに違いない……
勝手に思い込んでいた僕は、クラスの男子ともつるむようになり、
姉貴や藍と一緒に遊ぶことはめっきり減ってしまった。
そのまま何となく藍とは疎遠になり、卒業後、彼女と同じ中学に入学した、
一学年上の姉貴は相変わらず優秀で、弟の俺は良く同じクラスの男子から
美人の姉貴がいる事を羨ましがられたっけ……
ここでも僕は香月の弟というポジションだった、
別にそれでいい、それが楽なんだから……
中学生になり、藍は学校を休みがちになった、
休む理由は分からなかったが、同じクラスなのでお隣さんの僕が
溜まったプリントを届ける役目になったんだ。
放課後、彼女の家に向かい玄関の呼び鈴を押し、インターフォンに声を掛ける、
暫くした後、パジャマの上にカーディガンを羽織った藍がドアを開けてくれる。
「恵一君？」
驚いた彼女の顔色は何だか、紙のように白く見えた、
「ああ、先生に頼まれたから……」
小学生の頃と同じく、ぶっきらぼうに答える。
「ありがとう……」
何故かすごく喜んでくれたみたいだ、
戸惑う僕を尻目に彼女がこう言った、
「良かったら上がって！」
藍が僕の手を握り、玄関に招き入れる
柔らかい手の感触に驚いてしまう……
久しぶりにお邪魔する藍の家は、僕の家と殆ど同じ間取りだった、
同じハウスメーカーの建て売り分譲の為だ。
彼女の部屋は二階で、隣に立つ姉貴の部屋に面している。
もしこれが漫画やドラマで良くあるように、僕の部屋から彼女の部屋が
見えたら、彼女に恋していた僕は気が狂っていたかもしれない……
「お茶を入れるから、部屋で待ってて……」
部屋のドアを開ける彼女、促されるまま藍の部屋に入る、
年頃の女の子の部屋に入るのは姉貴以外では初めてだ、
落ち着かない面持ちで部屋を見回す、
可愛らしい白を基調としたベットに勉強机、その隣に備え付けのクローゼット
先程まで横になっていたのかベットの布団が乱れている、
何の香水だろうか、柑橘系のいい香りが漂う。
「んっ？」
勉強机の上に置かれた写真に視線が止まる、
その時、彼女がお茶を運んで部屋に入ってきた、
僕の視線に気がついたみたいだ。
「この写真は……」
その写真は小学生の頃の僕たち三人が写っていた、
変顔をする僕の左右には藍と姉貴。
「あの頃は楽しかったよね……」
ベットサイドにお茶のトレーを置き、彼女が懐かしそうに答えた。
「ああ、馬鹿みたいに時間だけはあって、泥だらけになりながら
遊び歩いたっけ……」
不思議と一瞬であの頃の素直な気持ちに戻れた、
何であんなに藍を避けていたんだろう……
僕の前に立つ彼女は、あの頃より成長して綺麗になっていた、
肩まである長い黒髪、陶器のような白い肌、
その頬にうっすらと赤みが差し、僕に向かって微笑んでくれた。
「恵一君覚えてる？ 携帯ゲームで良く遊んだよね！」
「そうだな、ゲームも面白かったけど、カメラで写真や動画を撮って
交換して遊んだっけ……」
当時、小学生の間で流行していた国民的な携帯ゲーム機だ、
本体に二つ付けられたカメラで、写真や動画が撮れる、
それで良く撮りっこをして画像や動画を交換した。
「恵一君が良く変顔して笑わせてくれたよね……」
クソガキだった僕は当時の写真を見ても、まともな顔で写真に写っていない、
良く親父に怒られたっけ……
「そうそう、まだ持ってるかも……」
藍がクローゼットを開け、ゴソゴソと引き出しを開け、何かを探す、
「あった！」
嬉しそうに俺の目の前に差し出した物は、あの携帯ゲーム機だった、
まだ持ってたんだ……
女の子らしいピンクの本体、フタを開け電源を入れる彼女、
「あれ？ 」
経年でバッテリーが劣化して電源は入らないみたいだ、
「残念だな……」
子供のような表情になり、がっかりする藍、
一瞬、幼い頃の彼女に面影が重なった。
「確か、家に充電ケーブルあったはずだから貸してみろよ」
「ホント！ お願いしてもいい？」
「姉貴が物持ち良いから絶対捨ててないと思う」
「未来美お姉ちゃん、子供の頃と変わってないね」
あの頃のように二人で笑い合う、
「今日は恵一君と話せて本当に嬉しい！
私ね、恵一君と話しかった事、まだまだ沢山あるの……」
「おう！ 何でも聞いてやるよ」
子供の頃みたいに普通に会話出来て、自分でも驚いた。
藍のゲーム機を直せれば、止まった時計の針が動き出すような気がした、
これから藍とまた二人の時間を刻めれば……
僕は上機嫌で家に帰った、
ダイニングで姉貴に声を掛けられる、
「恵一、何ニヤニヤしてるの、キモいんだけど！」
そんな姉貴の毒舌にも僕は反論しない位、浮かれていた、
翌朝の電話があるまでは……
「はい、香月です」
親父が電話を受ける、ダイニングテーブルで朝食を取る僕と姉貴も、
会話の内容から何か、ただならぬ雰囲気を感じていた、
顔色を変え、神妙な面持ちで電話を切る親父。
「お前達、落ち着いて聞いて欲しい」
親父が絞り出すような声で僕たちに告げる、
「藍ちゃんが今朝亡くなった……」
一瞬、親父が何を言っているのか理解できなかった……
姉貴がその場に泣き崩れるのが視界の隅に映った。
「えっ、何言ってんの親父、だって昨日はあんなに元気で……」
僕は昨日彼女に会ったばかりだ、何かの悪い冗談だろ。
「昨日は一時退院で家に戻っていたそうだ、だけど夜中に急変して……」
親父も絶句してしまう。
その後の事は良く覚えていない、
本当にショックな事があると人は回路を遮断するように
感情を閉ざしてしまうようだ……
僕は藍の葬儀にも出られず、家で引きこもっていたんだ……
「藍の六回忌か……」
現実に引き戻され、東京の狭いアパートの天井が目に入る。
藍が亡くなった後、抜け殻のような生活を送る僕を、
親父と姉貴、そしておばあちゃんは辛抱強く見守ってくれた、
時間は掛かったが中学、高校と何とか進学出来たのも家族の支えのお陰だ、
そして現在の僕が居る。
やっぱり田舎に帰ろう、決心した僕は急いで部屋を後にした。
田舎に帰るとおばあちゃんを始め、家族が大歓迎してくれた、
姉貴は多くを語らず、僕に明日の法事に供え、早く休めと言ってくれた。
久しぶりに自分の部屋に入る、ここを出た時のままだ、
懐かしさに勉強机に座り、一段目の引き出しを開ける、
「！？」
ピンク色の携帯ゲーム機があった！
あの日、藍に直す事を約束したまま、机にしまい込んで忘れていたんだ、
隣の姉貴の部屋に駆け込む、
「何？ まだ寝てなかったの」
咎める姉貴に構わず、お願いをする。
「この携帯ゲーム機の電源ケーブル持ってる？」
姉貴はあっけに取られながらも俺の真剣な表情に押され、
探す事を快諾してくれた。
暫くして僕の部屋に電源ケーブルを届けてくれた、
「何に使うか分からないけど藍ちゃんの為なんでしょ？」
感の良い姉貴は何か感じてくれていたようだ……
「また、落ち着いたら聞かせてね、おやすみ」
はやる気持ちを抑えながら、携帯ゲーム機に電源ケーブルを繋ぐ、
フタを開け電源を入れる、上下の液晶に光が灯りゲーム機が立ち上がる、
良かった！バッテリーは死んでいないようだ。
タッチペンで画面を操作する、
カメラアプリの中にデータフォルダがあり、あの頃の日付が残っている。
あの夏の日、神社で遊んでいた頃のデータだ！
日付順に画像と動画を確認する、そこにあの頃の僕たちが居た。
変顔をしている僕や、それを咎める姉貴の動画、
そして……
藍があの頃のまま、笑っていた。
そこに確かに藍は生きていた、少し困ったような笑顔、
笑うと口元から覗く八重歯、彼女のワンピースの裾がふわりと風に広がった、
僕の大好きだった藍がそこに居たんだ……
動画は短く、最長でも一分位のファイルだ、
すぐに再生が終わってしまう、
僕は何かに取り憑かれたように動画ファイルを順番に再生した。
殆どがあの秘密基地や野外での撮影だった。
残されたファイルはあと一個になり、見終えてしまったら
彼女の生きた証が無くなってしまう、そんな気がして胸が締め付けられた。
ゆっくりと深呼吸してファイルを再生する。
あれっ、この動画は場所が違うぞ、
藍の部屋のようだ、彼女のアップで始まる、
どうやら机の上にゲーム機を置いて自撮り風に撮ったみたいだ。
後ろの壁に当時の制服が掛かっているのが見える。
「えっと、これは誰にも見せないつもりです、
お父さんにもお母さんにも内緒です……」
少し照れながら、カメラに向かって話し始める藍。
「恵一くんにもまだ内緒だよ、これは告白の練習、
ビデオのラブレターなんだから……」
驚いて動画の日時を確認する、
おぼろげな記憶をたぐり寄せる、確か僕が藍を避けるようになった時期だ。
「恵一君は最近、藍と遊んでくれません、寂しいけど私も少しホッとしてるの、
だって、恵一くんと一緒にいたら、私もドキドキしちゃうから」
「恵一君といると藍の胸の奥がキュッとして、心臓が壊れそうな気がするの……」
彼女が伏し目がちになり俯いてしまう、
「でも、お部屋の中だけの秘密だから、勇気を出して言うね……」
顔を上げ、意を決してカメラに向かって言葉を続ける、
「恵一君、藍は君の事が大好きだよ！ 将来お嫁さんにして欲しいけど、
藍、ちゃんと大人になれるかな？ 私、身体が弱っちいから……
昔からお父さんやお母さんに心配掛けてるし」
「だけど頑張って元気になって、もっともっと恵一君と遊びたいな……」
「今は恵一君と遊べないけど、藍の事、ずっと忘れないで欲しいんだ、
中学、高校、そして、そしてね、私の隣には成長した恵一君、
カッコいい大人の君と、並んで歩けたら嬉しいな！」
「大好きな恵一君に、藍の気持ち、ちゃんと伝わるかな？」
そこで動画は終わった、
涙で滲む小さな画面に向かって、僕はあの頃出来なかった告白をした。
「藍、ありがとう、確かに気持ち受け取ったよ、
もちろん僕も大好きだ……
君があの河原で言ってくれた言葉、覚えている？
僕はその言葉で救われたんだ、
君は香月の弟じゃなく、恵一君だよって……」
そして最後の言葉を藍に語りかける。
「今でもずっと藍の事が好きだ、
君の事、一生忘れないよ……」
小さな画面の中で止まったままの君が、やさしく微笑みかけてくれた気がした……
そして僕は、そっと携帯ゲーム機のフタを閉じた。
電話越しの姉貴の言葉に、一瞬にして過去に引き戻される。
「もちろん戻って来るんでしょ？ 恵一」
「僕も大学やバイトで忙しいんだよ、まだ分からないな……」
「恵一、たまには帰って来て、おばあちゃんを安心させてあげなさい」
「そうだな、都合付けてみるよ、じゃあね」
これ以上話すと姉貴に色々お説教されそうなので、早々に電話を切る。
スマホを机に放り投げつつ、ベットに仰向けになる、
ぼんやりと狭いワンルームの天井を眺める。
「あいつの七回忌か……」
そのまま、虚空を見つめ物思いに耽る。
僕、香月恵一《かつきけいいち》は都内の私立大学に通う十九歳だ、
自分で言うのも何だが、平凡な人生を歩んできた、
小、中、高と出来の良い姉貴、香月未来美《かつきみくみ》がいたお陰で、
香月の弟と言う呼び名が定着していた。
何故かと言うと、姉貴は成績優秀、スポーツ万能、
その上、美人と三拍子揃った僕の田舎でも有名な才女だった。
いつも姉貴の後ろを金魚のフンみたいについて回ってたっけ……
だから、子供の頃から友達にも先生にも、香月の弟と呼ばれていた。
それに僕も疑問を抱かなかったんだ。
でもあいつだけは違ったんだ……
「君は香月の弟って呼び名じゃないよ、恵一君」
夕暮れの河原で、にっこりと微笑みながら彼女は僕に言った……
肩までの真っ直ぐな黒髪に、夕陽が反射してコントラストになり、
肩越しの水面の反射と相まって、彼女の笑顔が輝いて見えたんだ……
僕の実家は都心から電車で二時間位、適度に都会で適度に田舎だ、
やっとコンビニが近所に出来たとおばあちゃんが喜んでいたっけ。
そのおばあちゃんにも最近、顔を見せていない、
東京に出る時、一番心配したのはおばあちゃんだった、
母を幼い頃病気で亡くした僕達を、母親代わりに育ててくれたのも、
おばあちゃんだからだ。
本当は帰省して安心させてやりたいが、
気が進まないのはあいつの法事があるからだ……
記憶の深い澱の中に刺さったままのナイフのように、
今でもあの日の事を思い出すと胸が痛む、
あの夏の日、亡くなった二宮 藍《あい》の事を……
藍は僕達、姉弟のお隣さんだった、
僕と同い年という事もあり、三人で近所の野山を駆けずり回ったっけ、
女二人、男一人、多数決でかくれんぼではいつも僕が鬼だったな、
定番の遊び場所は近くのお稲荷さんで、そこにある村の集会所が
僕らの秘密基地代わりだった。
普段、あまり使われていないので、自由に出入りして、駄菓子を食べたり、
携帯ゲームをやったり、学校帰りには何時も直行していたな。
小学四年生のある日、いつものように三人でかくれんぼを始めた、
珍しくじゃんけんで負けた姉貴が鬼で、
むくれながらも目を瞑り、カウントを始めた。
僕と藍は急いで隠れる場所を探した、
集会場と神社の間の通路下に、子供二人位なら身を隠せるスペースが
ある事に気がついた僕は、藍を促してそこに隠れた。
カウントが終わり、姉貴が鬼の掛け声を上げつつ、探し回る気配がする、
僕と藍は狭いスペースで身体を密着させていた、
彼女の息使いまでこちらに伝わってくる、
彼女の長い髪が俺の頬に触れた、妙なくすぐったさと同時に、
ほのかなシャンプーの香りが鼻腔を突く。
その時だった、急に僕の中で何かか変わった……
今まで女の子と意識した事が無かった藍、
その真剣な横顔をチラリと盗み見る、
僕の顔は耳まで真っ赤だったに違いない。
何故、今まで気がつかなかったんだろう、
彼女が可愛いと言うことに……
藍と密着する肩口のシャツが妙に汗ばむのが分かる、
慌てて彼女と距離を置こうとして派手に物音を立ててしまう。
「恵一！藍ちゃん！ みっけ！」
夏の暑い境内に姉貴の声が響いた。
その後、藍を異性として意識してしまった僕は放課後、
神社の秘密基地に通うのをやめた。
我ながらガキだったなぁと今なら思えるが、小学四年生の僕は
初恋という初めての感情に戸惑っていたんだろう……
藍とも距離を置き、誘われてもぶっきらぼうに答えていた、
その時の彼女の寂しそうな表情が忘れられない……
大好きの裏返しで、学校で色々意地悪もしてしまった。
きっと嫌われているに違いない……
勝手に思い込んでいた僕は、クラスの男子ともつるむようになり、
姉貴や藍と一緒に遊ぶことはめっきり減ってしまった。
そのまま何となく藍とは疎遠になり、卒業後、彼女と同じ中学に入学した、
一学年上の姉貴は相変わらず優秀で、弟の俺は良く同じクラスの男子から
美人の姉貴がいる事を羨ましがられたっけ……
ここでも僕は香月の弟というポジションだった、
別にそれでいい、それが楽なんだから……
中学生になり、藍は学校を休みがちになった、
休む理由は分からなかったが、同じクラスなのでお隣さんの僕が
溜まったプリントを届ける役目になったんだ。
放課後、彼女の家に向かい玄関の呼び鈴を押し、インターフォンに声を掛ける、
暫くした後、パジャマの上にカーディガンを羽織った藍がドアを開けてくれる。
「恵一君？」
驚いた彼女の顔色は何だか、紙のように白く見えた、
「ああ、先生に頼まれたから……」
小学生の頃と同じく、ぶっきらぼうに答える。
「ありがとう……」
何故かすごく喜んでくれたみたいだ、
戸惑う僕を尻目に彼女がこう言った、
「良かったら上がって！」
藍が僕の手を握り、玄関に招き入れる
柔らかい手の感触に驚いてしまう……
久しぶりにお邪魔する藍の家は、僕の家と殆ど同じ間取りだった、
同じハウスメーカーの建て売り分譲の為だ。
彼女の部屋は二階で、隣に立つ姉貴の部屋に面している。
もしこれが漫画やドラマで良くあるように、僕の部屋から彼女の部屋が
見えたら、彼女に恋していた僕は気が狂っていたかもしれない……
「お茶を入れるから、部屋で待ってて……」
部屋のドアを開ける彼女、促されるまま藍の部屋に入る、
年頃の女の子の部屋に入るのは姉貴以外では初めてだ、
落ち着かない面持ちで部屋を見回す、
可愛らしい白を基調としたベットに勉強机、その隣に備え付けのクローゼット
先程まで横になっていたのかベットの布団が乱れている、
何の香水だろうか、柑橘系のいい香りが漂う。
「んっ？」
勉強机の上に置かれた写真に視線が止まる、
その時、彼女がお茶を運んで部屋に入ってきた、
僕の視線に気がついたみたいだ。
「この写真は……」
その写真は小学生の頃の僕たち三人が写っていた、
変顔をする僕の左右には藍と姉貴。
「あの頃は楽しかったよね……」
ベットサイドにお茶のトレーを置き、彼女が懐かしそうに答えた。
「ああ、馬鹿みたいに時間だけはあって、泥だらけになりながら
遊び歩いたっけ……」
不思議と一瞬であの頃の素直な気持ちに戻れた、
何であんなに藍を避けていたんだろう……
僕の前に立つ彼女は、あの頃より成長して綺麗になっていた、
肩まである長い黒髪、陶器のような白い肌、
その頬にうっすらと赤みが差し、僕に向かって微笑んでくれた。
「恵一君覚えてる？ 携帯ゲームで良く遊んだよね！」
「そうだな、ゲームも面白かったけど、カメラで写真や動画を撮って
交換して遊んだっけ……」
当時、小学生の間で流行していた国民的な携帯ゲーム機だ、
本体に二つ付けられたカメラで、写真や動画が撮れる、
それで良く撮りっこをして画像や動画を交換した。
「恵一君が良く変顔して笑わせてくれたよね……」
クソガキだった僕は当時の写真を見ても、まともな顔で写真に写っていない、
良く親父に怒られたっけ……
「そうそう、まだ持ってるかも……」
藍がクローゼットを開け、ゴソゴソと引き出しを開け、何かを探す、
「あった！」
嬉しそうに俺の目の前に差し出した物は、あの携帯ゲーム機だった、
まだ持ってたんだ……
女の子らしいピンクの本体、フタを開け電源を入れる彼女、
「あれ？ 」
経年でバッテリーが劣化して電源は入らないみたいだ、
「残念だな……」
子供のような表情になり、がっかりする藍、
一瞬、幼い頃の彼女に面影が重なった。
「確か、家に充電ケーブルあったはずだから貸してみろよ」
「ホント！ お願いしてもいい？」
「姉貴が物持ち良いから絶対捨ててないと思う」
「未来美お姉ちゃん、子供の頃と変わってないね」
あの頃のように二人で笑い合う、
「今日は恵一君と話せて本当に嬉しい！
私ね、恵一君と話しかった事、まだまだ沢山あるの……」
「おう！ 何でも聞いてやるよ」
子供の頃みたいに普通に会話出来て、自分でも驚いた。
藍のゲーム機を直せれば、止まった時計の針が動き出すような気がした、
これから藍とまた二人の時間を刻めれば……
僕は上機嫌で家に帰った、
ダイニングで姉貴に声を掛けられる、
「恵一、何ニヤニヤしてるの、キモいんだけど！」
そんな姉貴の毒舌にも僕は反論しない位、浮かれていた、
翌朝の電話があるまでは……
「はい、香月です」
親父が電話を受ける、ダイニングテーブルで朝食を取る僕と姉貴も、
会話の内容から何か、ただならぬ雰囲気を感じていた、
顔色を変え、神妙な面持ちで電話を切る親父。
「お前達、落ち着いて聞いて欲しい」
親父が絞り出すような声で僕たちに告げる、
「藍ちゃんが今朝亡くなった……」
一瞬、親父が何を言っているのか理解できなかった……
姉貴がその場に泣き崩れるのが視界の隅に映った。
「えっ、何言ってんの親父、だって昨日はあんなに元気で……」
僕は昨日彼女に会ったばかりだ、何かの悪い冗談だろ。
「昨日は一時退院で家に戻っていたそうだ、だけど夜中に急変して……」
親父も絶句してしまう。
その後の事は良く覚えていない、
本当にショックな事があると人は回路を遮断するように
感情を閉ざしてしまうようだ……
僕は藍の葬儀にも出られず、家で引きこもっていたんだ……
「藍の六回忌か……」
現実に引き戻され、東京の狭いアパートの天井が目に入る。
藍が亡くなった後、抜け殻のような生活を送る僕を、
親父と姉貴、そしておばあちゃんは辛抱強く見守ってくれた、
時間は掛かったが中学、高校と何とか進学出来たのも家族の支えのお陰だ、
そして現在の僕が居る。
やっぱり田舎に帰ろう、決心した僕は急いで部屋を後にした。
田舎に帰るとおばあちゃんを始め、家族が大歓迎してくれた、
姉貴は多くを語らず、僕に明日の法事に供え、早く休めと言ってくれた。
久しぶりに自分の部屋に入る、ここを出た時のままだ、
懐かしさに勉強机に座り、一段目の引き出しを開ける、
「！？」
ピンク色の携帯ゲーム機があった！
あの日、藍に直す事を約束したまま、机にしまい込んで忘れていたんだ、
隣の姉貴の部屋に駆け込む、
「何？ まだ寝てなかったの」
咎める姉貴に構わず、お願いをする。
「この携帯ゲーム機の電源ケーブル持ってる？」
姉貴はあっけに取られながらも俺の真剣な表情に押され、
探す事を快諾してくれた。
暫くして僕の部屋に電源ケーブルを届けてくれた、
「何に使うか分からないけど藍ちゃんの為なんでしょ？」
感の良い姉貴は何か感じてくれていたようだ……
「また、落ち着いたら聞かせてね、おやすみ」
はやる気持ちを抑えながら、携帯ゲーム機に電源ケーブルを繋ぐ、
フタを開け電源を入れる、上下の液晶に光が灯りゲーム機が立ち上がる、
良かった！バッテリーは死んでいないようだ。
タッチペンで画面を操作する、
カメラアプリの中にデータフォルダがあり、あの頃の日付が残っている。
あの夏の日、神社で遊んでいた頃のデータだ！
日付順に画像と動画を確認する、そこにあの頃の僕たちが居た。
変顔をしている僕や、それを咎める姉貴の動画、
そして……
藍があの頃のまま、笑っていた。
そこに確かに藍は生きていた、少し困ったような笑顔、
笑うと口元から覗く八重歯、彼女のワンピースの裾がふわりと風に広がった、
僕の大好きだった藍がそこに居たんだ……
動画は短く、最長でも一分位のファイルだ、
すぐに再生が終わってしまう、
僕は何かに取り憑かれたように動画ファイルを順番に再生した。
殆どがあの秘密基地や野外での撮影だった。
残されたファイルはあと一個になり、見終えてしまったら
彼女の生きた証が無くなってしまう、そんな気がして胸が締め付けられた。
ゆっくりと深呼吸してファイルを再生する。
あれっ、この動画は場所が違うぞ、
藍の部屋のようだ、彼女のアップで始まる、
どうやら机の上にゲーム機を置いて自撮り風に撮ったみたいだ。
後ろの壁に当時の制服が掛かっているのが見える。
「えっと、これは誰にも見せないつもりです、
お父さんにもお母さんにも内緒です……」
少し照れながら、カメラに向かって話し始める藍。
「恵一くんにもまだ内緒だよ、これは告白の練習、
ビデオのラブレターなんだから……」
驚いて動画の日時を確認する、
おぼろげな記憶をたぐり寄せる、確か僕が藍を避けるようになった時期だ。
「恵一君は最近、藍と遊んでくれません、寂しいけど私も少しホッとしてるの、
だって、恵一くんと一緒にいたら、私もドキドキしちゃうから」
「恵一君といると藍の胸の奥がキュッとして、心臓が壊れそうな気がするの……」
彼女が伏し目がちになり俯いてしまう、
「でも、お部屋の中だけの秘密だから、勇気を出して言うね……」
顔を上げ、意を決してカメラに向かって言葉を続ける、
「恵一君、藍は君の事が大好きだよ！ 将来お嫁さんにして欲しいけど、
藍、ちゃんと大人になれるかな？ 私、身体が弱っちいから……
昔からお父さんやお母さんに心配掛けてるし」
「だけど頑張って元気になって、もっともっと恵一君と遊びたいな……」
「今は恵一君と遊べないけど、藍の事、ずっと忘れないで欲しいんだ、
中学、高校、そして、そしてね、私の隣には成長した恵一君、
カッコいい大人の君と、並んで歩けたら嬉しいな！」
「大好きな恵一君に、藍の気持ち、ちゃんと伝わるかな？」
そこで動画は終わった、
涙で滲む小さな画面に向かって、僕はあの頃出来なかった告白をした。
「藍、ありがとう、確かに気持ち受け取ったよ、
もちろん僕も大好きだ……
君があの河原で言ってくれた言葉、覚えている？
僕はその言葉で救われたんだ、
君は香月の弟じゃなく、恵一君だよって……」
そして最後の言葉を藍に語りかける。
「今でもずっと藍の事が好きだ、
君の事、一生忘れないよ……」
小さな画面の中で止まったままの君が、やさしく微笑みかけてくれた気がした……
そして僕は、そっと携帯ゲーム機のフタを閉じた。
