今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

プロローグ

　アトリエの窓の外に広がる森に、暗い灰色の雲が重く垂れこめている。今にも雪が降ってきそうだ。年季の入った石油ストーブが赤々と焚かれていても、彼女と彼の身体は凍えるほど冷えきっている。

　四年間に渡ったふたりの結婚生活が、いやおうなく終わりを迎えようとしている。すでに彼女は離婚届にサインを済ませた。

　アトリエの中が薄暗くなってきた。その日の夕暮れが近づいているのだ。

　彼は油絵具にまみれたイーゼルに立てかけたスケッチブックを目の前にして頭を抱えている。画用紙の上には、うっすらと彼女の輪郭が浮かんでいる。使い込まれた短い鉛筆を握りしめた彼は、どうしようもない焦燥感に駆られていた。

　一瞬、彼の右手が震えた。あせればあせるほど、激しい後悔の念が襲ってくる。

　切実に彼は思う。

　今、君を描いてはいけなかったのか。でも、ここで君を描かずにはいられなかった。離れて行こうとする君を、どうしても引き止めるために。

　彼は結婚指輪がつけられた左手の薬指を鉛筆ごと右手でつかんで、自分の胸に抱えこんだ。そして、喉の奥底にまでわきあがってきた感情をかろうじて押さえつける。

　彼はこの腕の中にきつく彼女を抱きしめたいと思う。永遠に自分から離れられないように。彼は数回深呼吸をして息を整えた。

　今、描き上げなくてはならない。彼女との婚姻関係が手の届かない過去へと、はかなく消え去ってしまう前に。

　彼女はアトリエの窓辺に置かれた真紅の古い肘掛け椅子に座っている。曇りかけた窓ガラスの向こうには、白い雪に覆われた森の樹々がおぼろげに見える。腰までとどく長い黒髪を白い羽根の刺繍がほどこされたネイビーのワンピースに下ろして、彼女は彼の方を向いている。彼女は無表情でその黒い瞳に生気はない。

　彼は肘掛け椅子に座った彼女を見つめた。心から彼が愛する彼女を。ここでまた出会ってから互いに見つめ合い、いくどとなく唇を重ね、肌と肌を触れ合わせて何度も抱き合ってきた。身体だけではない。きっと心も深く繋がっていたはずだ。今だけはそう信じたい。彼女を失ったら、ここで彼はもう生きてはいけない。

　彼女はイーゼルの前に座った彼を見つめた。心から彼女が愛する彼を。いつか彼と別れなければならない時が来ることはわかっていた。はじめからそういう契約だったから。

　今、とうとう彼と別れる時が来てしまった。なすすべもなくこの運命を沈黙のまま受け入れるしかない。

　ずっと彼女は彼に伝えたいことがあった。でも、もう遅い。遅すぎる。今すぐに彼女はここから立ち去らなくてはならない。あとかたもなく。

　聞こえてくるのは、画用紙を擦る鉛筆の音とふたりの白く煙る息遣いだけ。

　真っ白な雪が音もなく降りはじめた。アトリエの中はだんだん暗闇に落ちていく。

　ふたりの最後の夜がやって来る。

　やがて、ふたりは白い月の下で、灰色の池の水面に身を漂わせる。