今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第3章 岸家へ
 ぼんやりと安寿が窓の外の曇り空を眺めていると、男がシルバートレイに青い花柄のティーセットをのせて戻って来た。男はティーポットから黄色味を帯びた液体をティーカップにゆっくりと注いだ。

 「よかったら、どうぞ」

 手を差し伸べて男が安寿に勧めた。

 安寿は会釈をして、湯気の立つ温かいティーカップに口をつけた。極薄の口当たりのティーカップは、きっと高級な食器なのだろう。レモンのような爽やかな香りと淡い黄色のお茶だ。初めて口にする。
 
 男は安寿がお茶を飲み始めたのを見つめてから、細い指先でティーカップを持ち上げてお茶を飲んだ。とても優雅な所作だ。安寿はつい見とれてしまった。

 静かな時間が流れた。ふたりは何も話さない。安寿は男との間の沈黙をなぜか心地よく感じた。そして温かいお茶は少しずつ安寿の気持ちを落ち着かせてくれた。

 「あの、これはハーブティーですか?」

 沈黙を破って安寿が尋ねた。
 
 「ええ。レモンバームのハーブティーです。心が休まる効能があるらしいです」

 そう言うと、男はティーカップに目を落とした。

 「自宅の庭で私が育てたハーブです。お恥ずかしい話ですが、私は社交が苦手なもので、個展の時の必需品なんです」

 (個展? このひとは、もしかしたら……)

 安寿は男の琥珀色の瞳を見つめた。

 安寿が男の名前を思い浮かべていると、「安寿! ここにいたの、探したわよ!」と恵のいら立ちを含んだ声がした。一瞬で安寿は我に返った。振り返ると顔をしかめた恵が後ろに立っていて、その隣には華鶴もいた。

 「あら、素敵! おふたりでティータイムね」と言って華鶴は上品に微笑んだ。華鶴はティーカップを一瞥し、ふたりが来客用の紅茶ではなくハーブティーを飲んでいることに気づいたが、そのことには触れずに恵にもお茶を勧めた。

 恵はその男と初対面のようで緊張しながら丁寧にあいさつをした。

 「岸先生、初めまして。美術舎出版の白戸恵と申します。本日はご招待をいただきましてありがとうございます。あの、姪の安寿が大変失礼をいたしまして、誠に申しわけございません」

 恵は深々とお辞儀をした。

 その言葉に安寿は男の正体を知った。

 (このひとが、岸宗嗣先生……)

 「いいえ、可愛らしいお嬢さんですね。白戸さんと、おっしゃいましたか? 珍しいお名前ですね。……初めてうかがいました」

 岸は心なしかしどろもどろな口調で答えた。華鶴がちらっと岸の顔を見た。

 受付にいた初老の男が、紅茶を淹れた四人分のティーセットとトリュフチョコレートを並べたガラスのケーキスタンドをワゴンにのせて運んで来た。
 
 「宗嗣さん、私、あなたにお話したかしら? 美術舎出版さまの先月の月刊誌に、川島先生の作品を掲載していただいたの。ほら、先生の新作の、あのブロンズの裸婦像よ。さっそくお問い合わせがあって、先日さっそくお買い上げいただいたのよ!」

 華鶴は両手の指を胸の前で合わせながらさも嬉しそうに夫に話した。

 岸は微笑して答えた。

 「そうですか。それはよかったですね、華鶴さん」

 安寿は目の前のふたりの上品な会話にいたく感心した。自分と住む世界がまったく違うと思った。

 華鶴は安寿が自分の出身高校の現役の高校生であることを岸に話し、甘い声で夫にねだるように提案した。

 「ねえ、宗嗣さん。恵さんと安寿さんを我が家にご招待しましょうよ! 私、おふたりとゆっくりおしゃべりしたいわ。ね、いいでしょう?」

 岸は戸惑った様子で苦笑いした。華鶴は夫の承諾を得る前に、「ね、ぜひいらっしゃって!」と恵と安寿に美しい笑顔を向けて誘った。

 安寿はひどく驚いた様子の叔母の顔を見たが、画家の自邸に興味を覚えた。安寿は胸の内で思った。

 (恵ちゃんがよければ、私、うかがってみたいかも)

 言いづらそうに恵が口を開いた。

 「お誘いはありがたいのですが、ご迷惑になりますので」

 やんわりと恵は断ろうとした。恵を見て安寿は小さく口をとがらせた。

 華鶴はパープルカラーのネイルをほどこした細い指先を、恵の手の甲に触れて言った。

 「迷惑なんてとんでもないわ。では、決まりね! 来月下旬の週末はどうかしら?」

 「ですが……」

 恵は下を向いて微笑んでいる安寿を横目で見てため息をついた。

 結局、華鶴の一方的な態度に押し切られて、恵と安寿は期せずして岸家を訪問することになった。

 華鶴は「あとは、伊藤にお任せするわ」と言って、階下の顧客たちのもとへ戻って行った。華鶴は去り際に安寿に向かってにっこりと微笑んだ。安寿は顔を赤らめて会釈した。
 
 伊藤は岸家の執事である。五十代後半のなで肩の男で、個展の受付をして先程ティーセットを運んで来た人物だ。「かしこまりました、華鶴奥さま」と伊藤は頭を下げて、恵に名刺を手渡した。当日は岸家の車で送迎をする旨と「ご用の際は、この名刺の電話番号にご遠慮なくご連絡してくださいませ」と伊藤は腰を曲げて丁寧に言った。

 恵と安寿は、岸と伊藤にお礼を言って、黒川画廊を後にした。

 ずっと何ごとかを考えてうわの空の恵を引っぱって、安寿は恵と近くのデパートの地下に行き、お気に入りのベーカリーでお約束のパンを買ってもらった。安寿は先ほどまでの緊張がすっかりほどけて、楽しみにしていた焼きたてのバゲットの香りを嬉しそうにかいだ。安寿は遠慮して手をつけられなかったトリュフチョコレートの箱が入った紙袋もしっかりと手に持っている。岸が伊藤に頼み、包み直して持たせてくれたのだ。画廊を出た後「もう、安寿ったら、本当に厚かましいんだから!」と安寿は恵ににらまれた。

 デパートの地下通路から地下鉄の駅に向かおうとすると恵は突然立ち止まり、安寿の腕をつかんで言った。

 「安寿、今度こそ新しいワンピースを買おう! 岸先生のご自宅にご招待されたんだもの、それなりの格好をしていかなくちゃだめでしょう。上の売り場に寄って行くわよ!」

 それでも、やはり安寿は「もう、恵ちゃんったら! 私はこの制服があるからいいの!」と言って断り、ひとりでさっさと地下鉄の駅の方へ向かって歩いて行った。

 その夜、自邸に戻った岸は、スタンドライトだけが灯された薄暗いサロンのソファにひとりで座り、今日の突然の出来事を思い出していた。

 「白戸、……安寿」

 岸の琥珀色の瞳がわずかに陰った。岸は深く息を吸って吐き、目を閉じてソファに深く寄りかかった。

 そこへ華鶴が音もなくやって来て、岸の背後に立った。華鶴は身をかがめて夫の耳にささやいた。

 「……恵さんと安寿さん、どちらがお望み?」

 目を見開いた岸はすぐに後ろを振り返ったが、華鶴は背を向けてサロンを出て行った。

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