今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
明日からアートフェアの搬入が始まる。航志朗は明日の夜のフライトでシンガポールに戻らなければならない。今夜、ブルーノはオペラ座のボックス席を予約していた。二日間しかミラノに滞在できない航志朗へささやかなプレゼントだとブルーノは言ったがそれは建前で、本音は元気のないマユのためだった。今夜の演目は、モーツァルトの『魔笛』だ。それを聞いた航志朗はマユに日本語で訊いた。
「マユさん、小学校の音楽の時間に、『魔笛』を習いませんでしたか? たぶん四年生くらいに」
マユは少し考えてから言った。
「覚えてないわ。それにしても、私が小学生の時、まさか将来イタリア人と結婚するなんて思ってもみなかった」
マユは少し寂しそうに笑った。
ブルーノとマユのなれそめは五年前にさかのぼる。ブルーノが二十九歳、マユが三十二歳の時だった。大学のサマーホリデーでイタリアに一時帰国していたブルーノは、フィレンツェからミラノに向かう飛行機の座席に座っていた。
その飛行機は整備不良で遅延してから、三時間以上が経過していた。機内に留め置かれた乗客たちは空腹にいら立ち始め、あわててキャビンアテンダントたちが昼食を配り出した。
ブルーノのすぐそばで、ミールカートから昼食のトレイを取り出したキャビンアテンダントが誤ってパンを床に落とした。だが彼女は素知らぬふりをして、落ちたパンを元に戻した。その様子を目撃したブルーノはやれやれと両肩を上げてふと隣を見ると、そこに座っている女と目が合った。彼女もその様子を見ていて、思わずふたりは笑い合った。ブルーノは彼女の無邪気な笑顔をまぶしそうに見つめた。
実は、その座席に座った時から、ブルーノは隣の席の女が気になって仕方がなかった。艶やかな濡れ烏色の黒髪で、聡明そうな黒い瞳を持った東洋人の美しい女だった。彼女は長い髪をかきあげながら、イタリア語のテキストを熱心に読んでいて、時々小さな声で単語を発音していた。ブルーノは英語で彼女に尋ねた。
「イタリア語を勉強しているんですか?」
彼女は恥ずかしそうに微笑みながらイタリア語で答えた。
「ええ。私、ミラノに来て三年になるんですけれど、まだまだ下手なんです」
それは、まるで十代の少女が話しているかのような可愛らしい声だった。
突然、ブルーノの胸が早鐘を打ち出した。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
「日本です」
思わずブルーノは彼女の両手を強く握りしめた。ブルーノの大きな手はじっとりと汗ばんでいたが温かく、彼女は初対面の男だというのに安堵感を覚えた。ブルーノは息せききって言った。
「僕があなたにイタリア語を教えてあげますよ!」
「えっ?」
その瞬間、ふたりは恋に落ちた。その翌朝、ブルーノは彼のアパートメントのベッドの上で、彼女に結婚を申し込んだ。
その彼女が、現在の彼の妻、玉置繭子だ。
オペラは午後八時開演だった。三人はドレスアップして真っ暗な石畳の道を歩いて会場に向かった。マユはシルクの黒いロングドレスを着ていた。そのドレスは前から見るとごく控えめなデザインなのだが、背中がヒップすれすれにまで開いていて、航志朗は目のやり場に困った。大柄なブルーノがそれを隠すかのように常に彼女の後ろからその細い肩を抱いていた。
マユは自作のペンダントを身に着けていた。そのペンダントヘッドは、航志朗が見たことのない虹色に輝くグリーンがかった貴石で出来ていた。航志朗は心惹かれてマユに尋ねた。
「マユさん、それ、なんですか? オパールみたいだけど、違うな。不思議な輝きがありますね」
「ああ、これ? ローマングラスよ」
航志朗は初めて聞く名称だった。
「ローマングラス?」
「ええ。ローマ時代に作られたガラスが、化学反応を起こして塩化したものなの。二千年以上、土の中に埋まっていたのよ。イスラエルで仕入れて来たの」
「二千年か。へえ、ロマンチックですね」
航志朗は感心した。そして、航志朗は安寿の顔を思い浮かべた。
(彼女、こういうの好きだろうな……)
ブルーノも航志朗も黒いタキシードを着ていた。マユは両側から二人の男に手を取られて、オペラ座の階段を上がった。
「ねえ、ブルーノ、こういうの日本語で、『両手に花』って言うのよ。まあ、本来は男性に使うんだけどね」
頬を紅潮させたマユは心から楽しそうだった。その姿を見たブルーノは少し安堵した。
オペラ座のボックス席は真っ赤なサテンとビロード張りの豪勢な空間で個室のようにリラックスして座ることができる。マユは二人の男の真ん中に座った。赤と金色に彩られた華やかな会場はほぼ満席だった。
オーケストラの音合わせが始まった。次々に各楽器がラの音を響かせはじめる。騒めいていた会場がだんだん静まりかえっていく。胸が躍る瞬間だ。ゆっくりと照明が落とされていき、やがてオーケストラの音楽が奏で始められるとともにオペラ歌手が登場し演目が始まった。航志朗にとって久しぶりのオペラ鑑賞だった。大学院時代にロンドンのコヴェント・ガーデンに観に行った夜以来だ。その時に隣にいたガールフレンドの顔を航志朗は一瞬思い出したが、すぐに都合よく忘れた。
また航志朗は想像した。
(今、もし、安寿が隣にいたら……)
隣に座っているマユのようにセクシーなドレスを身にまとった安寿の姿を思い浮かべて、航志朗は少し赤くなった。
やがて、有名なソプラノの独唱が始まった。オペラ歌手の超絶技巧の見どころだ。つんざくような高音が会場内に響いた。その時、突然マユが涙を流してブルーノに寄りかかり、彼の首に腕を回した。眉間にしわを寄せたブルーノはマユをしっかりと抱きとめた。それからマユは声を出さずに、ずっとブルーノの腕の中で泣いていた。航志朗はそれに気づき心配になって彼らを見た。ブルーノは航志朗に一度うなずいてからマユの肩に顔をうずめた。
オペラは続いた。航志朗は無言で舞台だけを見つめた。
「マユさん、小学校の音楽の時間に、『魔笛』を習いませんでしたか? たぶん四年生くらいに」
マユは少し考えてから言った。
「覚えてないわ。それにしても、私が小学生の時、まさか将来イタリア人と結婚するなんて思ってもみなかった」
マユは少し寂しそうに笑った。
ブルーノとマユのなれそめは五年前にさかのぼる。ブルーノが二十九歳、マユが三十二歳の時だった。大学のサマーホリデーでイタリアに一時帰国していたブルーノは、フィレンツェからミラノに向かう飛行機の座席に座っていた。
その飛行機は整備不良で遅延してから、三時間以上が経過していた。機内に留め置かれた乗客たちは空腹にいら立ち始め、あわててキャビンアテンダントたちが昼食を配り出した。
ブルーノのすぐそばで、ミールカートから昼食のトレイを取り出したキャビンアテンダントが誤ってパンを床に落とした。だが彼女は素知らぬふりをして、落ちたパンを元に戻した。その様子を目撃したブルーノはやれやれと両肩を上げてふと隣を見ると、そこに座っている女と目が合った。彼女もその様子を見ていて、思わずふたりは笑い合った。ブルーノは彼女の無邪気な笑顔をまぶしそうに見つめた。
実は、その座席に座った時から、ブルーノは隣の席の女が気になって仕方がなかった。艶やかな濡れ烏色の黒髪で、聡明そうな黒い瞳を持った東洋人の美しい女だった。彼女は長い髪をかきあげながら、イタリア語のテキストを熱心に読んでいて、時々小さな声で単語を発音していた。ブルーノは英語で彼女に尋ねた。
「イタリア語を勉強しているんですか?」
彼女は恥ずかしそうに微笑みながらイタリア語で答えた。
「ええ。私、ミラノに来て三年になるんですけれど、まだまだ下手なんです」
それは、まるで十代の少女が話しているかのような可愛らしい声だった。
突然、ブルーノの胸が早鐘を打ち出した。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
「日本です」
思わずブルーノは彼女の両手を強く握りしめた。ブルーノの大きな手はじっとりと汗ばんでいたが温かく、彼女は初対面の男だというのに安堵感を覚えた。ブルーノは息せききって言った。
「僕があなたにイタリア語を教えてあげますよ!」
「えっ?」
その瞬間、ふたりは恋に落ちた。その翌朝、ブルーノは彼のアパートメントのベッドの上で、彼女に結婚を申し込んだ。
その彼女が、現在の彼の妻、玉置繭子だ。
オペラは午後八時開演だった。三人はドレスアップして真っ暗な石畳の道を歩いて会場に向かった。マユはシルクの黒いロングドレスを着ていた。そのドレスは前から見るとごく控えめなデザインなのだが、背中がヒップすれすれにまで開いていて、航志朗は目のやり場に困った。大柄なブルーノがそれを隠すかのように常に彼女の後ろからその細い肩を抱いていた。
マユは自作のペンダントを身に着けていた。そのペンダントヘッドは、航志朗が見たことのない虹色に輝くグリーンがかった貴石で出来ていた。航志朗は心惹かれてマユに尋ねた。
「マユさん、それ、なんですか? オパールみたいだけど、違うな。不思議な輝きがありますね」
「ああ、これ? ローマングラスよ」
航志朗は初めて聞く名称だった。
「ローマングラス?」
「ええ。ローマ時代に作られたガラスが、化学反応を起こして塩化したものなの。二千年以上、土の中に埋まっていたのよ。イスラエルで仕入れて来たの」
「二千年か。へえ、ロマンチックですね」
航志朗は感心した。そして、航志朗は安寿の顔を思い浮かべた。
(彼女、こういうの好きだろうな……)
ブルーノも航志朗も黒いタキシードを着ていた。マユは両側から二人の男に手を取られて、オペラ座の階段を上がった。
「ねえ、ブルーノ、こういうの日本語で、『両手に花』って言うのよ。まあ、本来は男性に使うんだけどね」
頬を紅潮させたマユは心から楽しそうだった。その姿を見たブルーノは少し安堵した。
オペラ座のボックス席は真っ赤なサテンとビロード張りの豪勢な空間で個室のようにリラックスして座ることができる。マユは二人の男の真ん中に座った。赤と金色に彩られた華やかな会場はほぼ満席だった。
オーケストラの音合わせが始まった。次々に各楽器がラの音を響かせはじめる。騒めいていた会場がだんだん静まりかえっていく。胸が躍る瞬間だ。ゆっくりと照明が落とされていき、やがてオーケストラの音楽が奏で始められるとともにオペラ歌手が登場し演目が始まった。航志朗にとって久しぶりのオペラ鑑賞だった。大学院時代にロンドンのコヴェント・ガーデンに観に行った夜以来だ。その時に隣にいたガールフレンドの顔を航志朗は一瞬思い出したが、すぐに都合よく忘れた。
また航志朗は想像した。
(今、もし、安寿が隣にいたら……)
隣に座っているマユのようにセクシーなドレスを身にまとった安寿の姿を思い浮かべて、航志朗は少し赤くなった。
やがて、有名なソプラノの独唱が始まった。オペラ歌手の超絶技巧の見どころだ。つんざくような高音が会場内に響いた。その時、突然マユが涙を流してブルーノに寄りかかり、彼の首に腕を回した。眉間にしわを寄せたブルーノはマユをしっかりと抱きとめた。それからマユは声を出さずに、ずっとブルーノの腕の中で泣いていた。航志朗はそれに気づき心配になって彼らを見た。ブルーノは航志朗に一度うなずいてからマユの肩に顔をうずめた。
オペラは続いた。航志朗は無言で舞台だけを見つめた。