今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その翌日は曇りだった。空にはチャコールグレイの厚い雲が低くたれこめていた。外は朝から薄暗い。目覚めたブルーノはベッドルームの窓からそれを見て、妙に胸の奥がざわついた。
午前九時、ミラノ郊外に立地するアートフェア会場に航志朗とブルーノは車で向かった。その朝、マユはベッドから起きてこなかった。マユはブルーノが心配になるほど、ぐっすりと深く眠っていた。ブルーノはあわただしく出かける準備をしている間に、何回もベッドルームに行って、眠っているマユの口と鼻に手のひらを当てて、マユが息をしているか確かめた。
「マユ、大丈夫か……」
車を運転しながら眉間にしわを寄せたブルーノがつぶやいた。ブルーノの隣に座った航志朗は心配そうな面持ちで、サングラスの下からブルーノを横目で見つめた。
アートフェアは明日から開催される。白く塗られた鉄骨が恐竜の胸部の骨格のように組み立てられた大屋根を持つ前衛的なデザインの会場に入った。
世界中からやって来た大勢のアートディーラーたちが広い会場内を行き交い、忙しく搬入作業をしていた。ときどき工事現場から漏れてくるような騒音も聞こえてくる。
ふたりがブルーノのギャラリーのブースに到着すると、すでに三人の若いスタッフたちがタブレットの図面を見ながら設営を始めていた。ブルーノは航志朗をスタッフたちに紹介した。同年代の航志朗は彼らとにこやかに握手した。今日の航志朗はホワイトの長袖のカットソーにグレージーンズとスニーカーを履いた動きやすいラフな格好をしている。サングラスを取った航志朗は、腕まくりをして設営作業に加わった。女性スタッフが思わず航志朗をうっとりと見つめたが、目を落とすと彼が結婚指輪をしていることに気づき、苦笑いして首を振った。
今回、ブルーノのギャラリーが出展するのは、イタリア人若手アーティストの抽象画だ。モノトーンで心象風景が連作で描かれている。腕を組んだ航志朗はその絵を見て、安寿の絵はそれらと遜色がないことを確認した。
(むしろ期せずして、コラボレーションになっているんじゃないか)と航志朗は愉快に思った。航志朗はアタッシェケースを開けて、安寿の絵を取り出した。そして、覆われたシーツを取ろうとした時、ブルーノのスマートフォンが大音量で、『アヴェ・マリア』を奏で始めた。スタッフたちが顔を見合わせて微笑んだ。
「コーシ、マユから電話だ。すまないが、アンジュの絵を展示するのを、ちょっと待っていてくれないか。俺も立ち会いたいから」
航志朗はうなずいて手を止めた。
「マユ、今朝はよく眠っていたな。本当に心配したぞ」
ブルーノはにぎやかな会場の外に向かいながら、右手で右耳を押さえてマユに話しかけた。
『ブルーノ、心配させてごめんなさい。設営の方はどう?』
「ああ、順調だ。コーシが手伝ってくれているからな。彼は強力な助っ人だよ」
外に出たブルーノは曇り空を見上げた。雨が降ってきそうな気配だ。ブルーノは少し顔をしかめた。
マユが電話の向こうで深いため息をついた。ブルーノはその気配に思わず胸がかきむしられた。
(俺は、昨晩、彼女に本当にひどいことをしてしまった……)
しばらくふたりの間に沈黙が続いた。そして、マユが不意に言った。
『ブルーノ、私、あなたにお願いしたいことがあるの』
急にブルーノは胸騒ぎがした。
(もしかして、別れ話か。マユ……)
「お願いしたいことって、なんだ?」
ブルーノの声は震えた。嫌な汗をかきながら、ブルーノは右手をきつく握りしめた。
その時、マユは思いきったように早口で言った。ふたりが出会った頃と変わらない十代の女の子のような可愛らしい声で。
『ブルーノ、私、あの絵がほしい!』
「なんだって?」
一瞬、頭のなかが真っ白になったブルーノは、わけがわからずに困惑した。
『あの絵よ! 昨晩、リビングルームのチェストの上に置いてあった森の絵、私が買うわ』
思わずブルーノは大空を見上げた。そこへ南からの風が吹いて来て、チャコールグレイの重たい雲を蹴散らした。明るく温かい陽の光が差し込んできて、ブルーノを照らした。ブルーノは握りしめていた右手を空に向かって開いた。ゆっくりと手のひらの汗が乾いていき、その心地よい感触にブルーノは大いに笑った。
しばらくしてから、ブルーノはブースに戻って来た。壁にもたれかかってスマートフォンを繰っていた航志朗が気づいてブルーノに近づき、低い声で尋ねた。
「マユさん、大丈夫なのか?」
ブルーノはそれに答えずにシーツに覆われた安寿の絵を丁寧にアタッシェケースにしまった。航志朗はブルーノのその行為を不可解に思った。
「コーシ、家に帰るぞ。ランチタイムだ」と言って、アタッシェケースを左手に持ったブルーノは、右手で航志朗の肩に腕を回して彼を抱き寄せた。ブルーノは航志朗の肩に顔を埋めて涙した。
「コーシ。それから、アンジュ。ありがとう」
午前九時、ミラノ郊外に立地するアートフェア会場に航志朗とブルーノは車で向かった。その朝、マユはベッドから起きてこなかった。マユはブルーノが心配になるほど、ぐっすりと深く眠っていた。ブルーノはあわただしく出かける準備をしている間に、何回もベッドルームに行って、眠っているマユの口と鼻に手のひらを当てて、マユが息をしているか確かめた。
「マユ、大丈夫か……」
車を運転しながら眉間にしわを寄せたブルーノがつぶやいた。ブルーノの隣に座った航志朗は心配そうな面持ちで、サングラスの下からブルーノを横目で見つめた。
アートフェアは明日から開催される。白く塗られた鉄骨が恐竜の胸部の骨格のように組み立てられた大屋根を持つ前衛的なデザインの会場に入った。
世界中からやって来た大勢のアートディーラーたちが広い会場内を行き交い、忙しく搬入作業をしていた。ときどき工事現場から漏れてくるような騒音も聞こえてくる。
ふたりがブルーノのギャラリーのブースに到着すると、すでに三人の若いスタッフたちがタブレットの図面を見ながら設営を始めていた。ブルーノは航志朗をスタッフたちに紹介した。同年代の航志朗は彼らとにこやかに握手した。今日の航志朗はホワイトの長袖のカットソーにグレージーンズとスニーカーを履いた動きやすいラフな格好をしている。サングラスを取った航志朗は、腕まくりをして設営作業に加わった。女性スタッフが思わず航志朗をうっとりと見つめたが、目を落とすと彼が結婚指輪をしていることに気づき、苦笑いして首を振った。
今回、ブルーノのギャラリーが出展するのは、イタリア人若手アーティストの抽象画だ。モノトーンで心象風景が連作で描かれている。腕を組んだ航志朗はその絵を見て、安寿の絵はそれらと遜色がないことを確認した。
(むしろ期せずして、コラボレーションになっているんじゃないか)と航志朗は愉快に思った。航志朗はアタッシェケースを開けて、安寿の絵を取り出した。そして、覆われたシーツを取ろうとした時、ブルーノのスマートフォンが大音量で、『アヴェ・マリア』を奏で始めた。スタッフたちが顔を見合わせて微笑んだ。
「コーシ、マユから電話だ。すまないが、アンジュの絵を展示するのを、ちょっと待っていてくれないか。俺も立ち会いたいから」
航志朗はうなずいて手を止めた。
「マユ、今朝はよく眠っていたな。本当に心配したぞ」
ブルーノはにぎやかな会場の外に向かいながら、右手で右耳を押さえてマユに話しかけた。
『ブルーノ、心配させてごめんなさい。設営の方はどう?』
「ああ、順調だ。コーシが手伝ってくれているからな。彼は強力な助っ人だよ」
外に出たブルーノは曇り空を見上げた。雨が降ってきそうな気配だ。ブルーノは少し顔をしかめた。
マユが電話の向こうで深いため息をついた。ブルーノはその気配に思わず胸がかきむしられた。
(俺は、昨晩、彼女に本当にひどいことをしてしまった……)
しばらくふたりの間に沈黙が続いた。そして、マユが不意に言った。
『ブルーノ、私、あなたにお願いしたいことがあるの』
急にブルーノは胸騒ぎがした。
(もしかして、別れ話か。マユ……)
「お願いしたいことって、なんだ?」
ブルーノの声は震えた。嫌な汗をかきながら、ブルーノは右手をきつく握りしめた。
その時、マユは思いきったように早口で言った。ふたりが出会った頃と変わらない十代の女の子のような可愛らしい声で。
『ブルーノ、私、あの絵がほしい!』
「なんだって?」
一瞬、頭のなかが真っ白になったブルーノは、わけがわからずに困惑した。
『あの絵よ! 昨晩、リビングルームのチェストの上に置いてあった森の絵、私が買うわ』
思わずブルーノは大空を見上げた。そこへ南からの風が吹いて来て、チャコールグレイの重たい雲を蹴散らした。明るく温かい陽の光が差し込んできて、ブルーノを照らした。ブルーノは握りしめていた右手を空に向かって開いた。ゆっくりと手のひらの汗が乾いていき、その心地よい感触にブルーノは大いに笑った。
しばらくしてから、ブルーノはブースに戻って来た。壁にもたれかかってスマートフォンを繰っていた航志朗が気づいてブルーノに近づき、低い声で尋ねた。
「マユさん、大丈夫なのか?」
ブルーノはそれに答えずにシーツに覆われた安寿の絵を丁寧にアタッシェケースにしまった。航志朗はブルーノのその行為を不可解に思った。
「コーシ、家に帰るぞ。ランチタイムだ」と言って、アタッシェケースを左手に持ったブルーノは、右手で航志朗の肩に腕を回して彼を抱き寄せた。ブルーノは航志朗の肩に顔を埋めて涙した。
「コーシ。それから、アンジュ。ありがとう」