今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
食事室で安寿と航志朗はできあがったばかりのカレーライスを口に運んだ。大盛りの夏野菜のサラダも並んでいる。航志朗は安寿の目の前でおいしそうに勢いよくたくさん食べた。安寿はそんな航志朗を見て嬉しさがこみあげてきて、下を向いて頬を赤くした。
窓の外は陽が傾きかけていた。時計を見ると午後六時だった。安寿は冷凍庫に咲が用意しておいてくれた数種類のカップアイスクリームがあることを思い出して、デザートに食べるかと航志朗に訊いた。航志朗は「風呂上がりに一緒に食べよう」と機嫌よく答えて、先に浴室に行った。
安寿も夕食の片づけをしてから風呂に入った。無意識のうちに普段よりも丁寧に身体を洗ったことに気づいて、バスタオルで髪を拭きながら顔を赤らめた。
パジャマ姿の安寿がサロンに入ると、古いレコードプレーヤーから端正な旋律のクラシック音楽が聴こえてきた。航志朗はソファに深く座り目を閉じていた。航志朗は安寿がやって来たことに気づくと、そのままの姿勢でゆっくりと目を開けて言った。
「祖母が好きだった昔のレコードだよ。子どもの頃、彼女の膝の上でよく聴いた」
安寿は航志朗の隣に腰掛けて尋ねた。
「……チェロですか?」
「ああ。フルニエのバッハだ」
サロンには鈍く黒光りしているアメリカ製のグランドピアノが置いてある。使い込まれたピアノは岸家のサロンに集った人びとを長らく見守ってきたのだろう。
それを見て安寿は思った。
(あのピアノ、恵真さまが弾いていらっしゃったのかな)
航志朗が安寿の視線に気づいて、少しだけ苦々しく笑って言った。
「子どもの頃、ピアノを習っていた。俺はベートーヴェンが好きだった。母やピアノの家庭教師には、多少嫌がられたけど」
「どうしてですか。何を好きになっても、航志朗さんの自由じゃないですか」
ふっと笑った航志朗は安寿を見て言った。
「きっと、彼女たちには、子どもだったらモーツァルトみたいな明るくて華やかな音楽を好むっていう思い込みがあったんじゃないのかな」
おずおずと安寿は航志朗に頼んだ。
「あの、航志朗さん。よかったら、何か弾いてくださいませんか」
「いいよ。数年ぶりだから多少つっかえるかもしれないけど」
あっさりと航志朗は承諾してレコードを止めると、グランドピアノの屋根と鍵盤蓋を開けて、長椅子の位置を調整してからピアノの前に座った。そして、指を曲げたり伸ばしたり肩を揺らした後、おもむろに航志朗はピアノを奏で始めた。
安寿は目を大きく見開いて息を呑んだ。
ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』だ。
実のところ、航志朗は軽い気持ちで弾き始めていたのだが、そのあまりにも美しい音色に安寿は泣きそうになっていた。航志朗はピアノを弾きながら安寿の様子をうかがった。瞳を潤ませた安寿は目をパジャマの袖でしきりに擦っていた。その姿を見た航志朗は、急に本気になって弾き出した。やがて、難易度が跳ね上がる第三楽章に入った。航志朗はアルペジオのスライドに何回もつまづいた。
苛立ちながら航志朗は思った。
(彼女に聴かせるってあらかじめ知っていたら、前もって練習しておいたのにな……)
目を閉じた安寿は暗闇のなかを走っていた。何かから逃げているのかもしれないし、自分を待っているひとのもとへと急いでいるのかもしれない。とにかく安寿は夢うつつの境目でひたすら走っていた。
曲を弾き終えた航志朗が安寿の前にやって来た。航志朗は安寿の黒髪をそっとなでた。安寿は目を開けて大きく拍手をした。
少し照れくさそうに首を傾けて航志朗が言った。
「安寿、アイス食べようか」
ふたりは一緒に台所に行った。航志朗はもちろんチョコレートアイスを選び、安寿は抹茶アイスを選んだ。ふたりはサロンのソファに座ってアイスクリームを食べた。そして、安寿のまったくの予想通りに航志朗が言った。
「安寿、そっちもおいしそうだな。俺も抹茶アイス食べたい」
安寿は平然と航志朗に「どうぞ」と言ってカップを差し出した。だが、航志朗は無邪気に安寿に向かって口を開けた。
(えっ、食べさせてほしいってこと?)
安寿は胸がどきどきしてきた。仕方なく安寿は自分が使っているスプーンで抹茶アイスをすくって航志朗の口に運んだ。航志朗はにんまりとしながら、嬉しそうに口に入れて食べた。
すぐにまた航志朗は口を開けた。肩を上げてから大きくため息をついた安寿は、また航志朗の口に抹茶アイスを運んだ。航志朗は「こっちも食べるだろ?」と言って、チョコレートアイスをすくったスプーンを安寿の口の前に差し出した。観念した安寿はそれを口にして顔を赤くした。抹茶味とチョコレート味と航志朗が口に入れていたスプーンの感触が口の中で混ざり合い、安寿の口の中はただ甘いだけになった。それを見た航志朗は満足そうに笑った。
それから、安寿はずっと気になっていたことを航志朗に尋ねた。
「あの、私の絵を買ってくださった方って、どんな方だったんですか?」
「ああ、イタリア人の若い夫婦だ」
「そうですか……」
安寿はいまだに二百万円もの大金で自分の絵が売れたことが信じられない。だが、安寿は目を閉じて、その見知らぬイタリア人夫婦に感謝した。航志朗がそんな安寿を見て、さらに驚くべきことを平然と述べた。
「あ、君に伝えるのを忘れていたんだけど、後日送金を確認したら、三万ユーロ振り込まれていたんだ」
安寿はわけがわからずに首をかしげた。安寿はユーロの円への換算がその場でできなかった。そんな安寿の顔を見て、航志朗はこともなげに言った。
「日本円で、約四百万円ってことだ」
思わず安寿は目を見開いて口を両手で抑えた。
「ど、どうしてですか! 送金の金額を間違えられたんじゃないですか」
安寿の驚いた顔を見て、航志朗は可笑しそうに声を立てて笑って言った。
「間違えてない。そのイタリア人夫婦、君の絵を購入したとたんに、子どもを授かったんだってさ」
「えっ?」
「そのお礼だってさ、君に」
安寿は目をまん丸くさせた。まったくわけがわからないが、自分は絵を描くことによって誰かの役に立てたのかもしれないと安寿は少し泣きそうになりながら思った。
航志朗は三週間前に突然かかってきた電話を思い出していた。
午前零時を回った時だった。シンガポールの自宅でシャワーを浴びてから、バルコニーで微かに見える星空を眺めて炭酸水を飲んでいた。遠く離れた安寿のことを想いながら。その時、航志朗のスマートフォンが鳴った。ミラノのブルーノ・デ・アンジェリスからだった。ブルーノはあいさつもせずに、いきなり大声で怒鳴るように言った。
『コーシ、マユが妊娠した! 俺は来年の春にパパになるんだ! たった今、病院に行ってわかったんだ』
「そうか。……よかったな、ブルーノ」
思わず航志朗は目頭が熱くなった。
『君たちのおかげだよ。心から感謝をしたい。あのアンジュの絵、二倍どころか、四倍で買う!』
「なんだって? それはやめてくれ!」
あわてふためいた航志朗は大声を出した。
『どうしてだ? アンジュが進学する大学の学費になるんだろ。俺が全部払ってやる!』
「落ち着け、ブルーノ! とにかく一年分でじゅうぶんなんだ」
航志朗はため息をついて思った。
(そんなことをしたら安寿が自立して、俺から離れて行ってしまうんだよ……)
『コーシ、そんなんじゃ俺の気が済まない。俺は最低でも二倍は払うからな!』
航志朗は、今、目の前にいる、あまりの驚くべきことに呆然としている安寿を見てひそかに思った。
(結局のところ、安寿の絵をアートフェアに出展しなかったのは、俺にとって幸運だったのか。俺の想像以上に、彼女の絵は世界に出て評価されることになるのかもしれない)
そう考えると、急に航志朗は内心穏やかではなくなり、あせりを感じ始めた。
(いつそうなっても、彼女が俺から離れていかないようにどうにかしないとな。どうにかって、……そう、彼女に俺のことを、心から愛するようになってもらわないとな)
窓の外は陽が傾きかけていた。時計を見ると午後六時だった。安寿は冷凍庫に咲が用意しておいてくれた数種類のカップアイスクリームがあることを思い出して、デザートに食べるかと航志朗に訊いた。航志朗は「風呂上がりに一緒に食べよう」と機嫌よく答えて、先に浴室に行った。
安寿も夕食の片づけをしてから風呂に入った。無意識のうちに普段よりも丁寧に身体を洗ったことに気づいて、バスタオルで髪を拭きながら顔を赤らめた。
パジャマ姿の安寿がサロンに入ると、古いレコードプレーヤーから端正な旋律のクラシック音楽が聴こえてきた。航志朗はソファに深く座り目を閉じていた。航志朗は安寿がやって来たことに気づくと、そのままの姿勢でゆっくりと目を開けて言った。
「祖母が好きだった昔のレコードだよ。子どもの頃、彼女の膝の上でよく聴いた」
安寿は航志朗の隣に腰掛けて尋ねた。
「……チェロですか?」
「ああ。フルニエのバッハだ」
サロンには鈍く黒光りしているアメリカ製のグランドピアノが置いてある。使い込まれたピアノは岸家のサロンに集った人びとを長らく見守ってきたのだろう。
それを見て安寿は思った。
(あのピアノ、恵真さまが弾いていらっしゃったのかな)
航志朗が安寿の視線に気づいて、少しだけ苦々しく笑って言った。
「子どもの頃、ピアノを習っていた。俺はベートーヴェンが好きだった。母やピアノの家庭教師には、多少嫌がられたけど」
「どうしてですか。何を好きになっても、航志朗さんの自由じゃないですか」
ふっと笑った航志朗は安寿を見て言った。
「きっと、彼女たちには、子どもだったらモーツァルトみたいな明るくて華やかな音楽を好むっていう思い込みがあったんじゃないのかな」
おずおずと安寿は航志朗に頼んだ。
「あの、航志朗さん。よかったら、何か弾いてくださいませんか」
「いいよ。数年ぶりだから多少つっかえるかもしれないけど」
あっさりと航志朗は承諾してレコードを止めると、グランドピアノの屋根と鍵盤蓋を開けて、長椅子の位置を調整してからピアノの前に座った。そして、指を曲げたり伸ばしたり肩を揺らした後、おもむろに航志朗はピアノを奏で始めた。
安寿は目を大きく見開いて息を呑んだ。
ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』だ。
実のところ、航志朗は軽い気持ちで弾き始めていたのだが、そのあまりにも美しい音色に安寿は泣きそうになっていた。航志朗はピアノを弾きながら安寿の様子をうかがった。瞳を潤ませた安寿は目をパジャマの袖でしきりに擦っていた。その姿を見た航志朗は、急に本気になって弾き出した。やがて、難易度が跳ね上がる第三楽章に入った。航志朗はアルペジオのスライドに何回もつまづいた。
苛立ちながら航志朗は思った。
(彼女に聴かせるってあらかじめ知っていたら、前もって練習しておいたのにな……)
目を閉じた安寿は暗闇のなかを走っていた。何かから逃げているのかもしれないし、自分を待っているひとのもとへと急いでいるのかもしれない。とにかく安寿は夢うつつの境目でひたすら走っていた。
曲を弾き終えた航志朗が安寿の前にやって来た。航志朗は安寿の黒髪をそっとなでた。安寿は目を開けて大きく拍手をした。
少し照れくさそうに首を傾けて航志朗が言った。
「安寿、アイス食べようか」
ふたりは一緒に台所に行った。航志朗はもちろんチョコレートアイスを選び、安寿は抹茶アイスを選んだ。ふたりはサロンのソファに座ってアイスクリームを食べた。そして、安寿のまったくの予想通りに航志朗が言った。
「安寿、そっちもおいしそうだな。俺も抹茶アイス食べたい」
安寿は平然と航志朗に「どうぞ」と言ってカップを差し出した。だが、航志朗は無邪気に安寿に向かって口を開けた。
(えっ、食べさせてほしいってこと?)
安寿は胸がどきどきしてきた。仕方なく安寿は自分が使っているスプーンで抹茶アイスをすくって航志朗の口に運んだ。航志朗はにんまりとしながら、嬉しそうに口に入れて食べた。
すぐにまた航志朗は口を開けた。肩を上げてから大きくため息をついた安寿は、また航志朗の口に抹茶アイスを運んだ。航志朗は「こっちも食べるだろ?」と言って、チョコレートアイスをすくったスプーンを安寿の口の前に差し出した。観念した安寿はそれを口にして顔を赤くした。抹茶味とチョコレート味と航志朗が口に入れていたスプーンの感触が口の中で混ざり合い、安寿の口の中はただ甘いだけになった。それを見た航志朗は満足そうに笑った。
それから、安寿はずっと気になっていたことを航志朗に尋ねた。
「あの、私の絵を買ってくださった方って、どんな方だったんですか?」
「ああ、イタリア人の若い夫婦だ」
「そうですか……」
安寿はいまだに二百万円もの大金で自分の絵が売れたことが信じられない。だが、安寿は目を閉じて、その見知らぬイタリア人夫婦に感謝した。航志朗がそんな安寿を見て、さらに驚くべきことを平然と述べた。
「あ、君に伝えるのを忘れていたんだけど、後日送金を確認したら、三万ユーロ振り込まれていたんだ」
安寿はわけがわからずに首をかしげた。安寿はユーロの円への換算がその場でできなかった。そんな安寿の顔を見て、航志朗はこともなげに言った。
「日本円で、約四百万円ってことだ」
思わず安寿は目を見開いて口を両手で抑えた。
「ど、どうしてですか! 送金の金額を間違えられたんじゃないですか」
安寿の驚いた顔を見て、航志朗は可笑しそうに声を立てて笑って言った。
「間違えてない。そのイタリア人夫婦、君の絵を購入したとたんに、子どもを授かったんだってさ」
「えっ?」
「そのお礼だってさ、君に」
安寿は目をまん丸くさせた。まったくわけがわからないが、自分は絵を描くことによって誰かの役に立てたのかもしれないと安寿は少し泣きそうになりながら思った。
航志朗は三週間前に突然かかってきた電話を思い出していた。
午前零時を回った時だった。シンガポールの自宅でシャワーを浴びてから、バルコニーで微かに見える星空を眺めて炭酸水を飲んでいた。遠く離れた安寿のことを想いながら。その時、航志朗のスマートフォンが鳴った。ミラノのブルーノ・デ・アンジェリスからだった。ブルーノはあいさつもせずに、いきなり大声で怒鳴るように言った。
『コーシ、マユが妊娠した! 俺は来年の春にパパになるんだ! たった今、病院に行ってわかったんだ』
「そうか。……よかったな、ブルーノ」
思わず航志朗は目頭が熱くなった。
『君たちのおかげだよ。心から感謝をしたい。あのアンジュの絵、二倍どころか、四倍で買う!』
「なんだって? それはやめてくれ!」
あわてふためいた航志朗は大声を出した。
『どうしてだ? アンジュが進学する大学の学費になるんだろ。俺が全部払ってやる!』
「落ち着け、ブルーノ! とにかく一年分でじゅうぶんなんだ」
航志朗はため息をついて思った。
(そんなことをしたら安寿が自立して、俺から離れて行ってしまうんだよ……)
『コーシ、そんなんじゃ俺の気が済まない。俺は最低でも二倍は払うからな!』
航志朗は、今、目の前にいる、あまりの驚くべきことに呆然としている安寿を見てひそかに思った。
(結局のところ、安寿の絵をアートフェアに出展しなかったのは、俺にとって幸運だったのか。俺の想像以上に、彼女の絵は世界に出て評価されることになるのかもしれない)
そう考えると、急に航志朗は内心穏やかではなくなり、あせりを感じ始めた。
(いつそうなっても、彼女が俺から離れていかないようにどうにかしないとな。どうにかって、……そう、彼女に俺のことを、心から愛するようになってもらわないとな)