今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
胸がしめつけられて苦しげな表情で安寿を見つめた航志朗は、強引に安寿の背中に腕を回して抱き寄せた。またたくまに安寿は真っ赤になって、目の前の航志朗の琥珀色の瞳を見上げた。その瞳の奥に激しく燃える真っ赤な色彩を見つけた安寿は全身が熱くなってきた。安寿は思いきり航志朗に抱きつきたくなったが、頑なに自分を制した。
(そんなことをしたら、きっと……)
安寿は両手を航志朗の胸に当てて少し身体を離してから言った。
「あ、あの、航志朗さん。私が、今、描いている絵を見てくださいませんか」
我に返った航志朗が黙ってうなずいた。
ふたりはアトリエに向かった。外はもう夜の暗闇に包まれている。だんだん安寿は怖くなってきた。
(どうして? 昨日の夜は、一人でもぜんぜん大丈夫だったのに……)
天井のライトをつけてアトリエの中に入ると、ふたりは安寿のイーゼルの前に立った。
そこには緑色の森が描かれていた。だが、ただの森ではない。安寿のなかに確かに存在する絵への情熱がほとばしっている。壮絶でみずみずしい若さにあふれた絵だった。航志朗は戦慄を覚えて言葉を失った。航志朗のその想いとは裏腹に、胸の鼓動を早めた安寿はうつむいて思った。
(……やっぱり、彼に絵を見られるのって、ものすごく恥ずかしい)
航志朗はやっとひとこと口に出した。
「安寿、今の君は、……緑の時代、なんだな」
ふとアトリエの窓の外を見た航志朗は安寿に尋ねた。
「安寿、君は、あの森のなかへ行ったことがあるのか」
すぐに安寿は答えた。
「いいえ、ありません。あの森は、岸家の敷地ではないと伊藤さんから聞いたので」
「今はな。昔は岸家が代々所有していた。祖父が亡くなった時に売却したんだ」
安寿は航志朗がとても哀しい色の瞳をしていることに気づいた。
しばらく沈黙していた航志朗が突然思いついて安寿を陽気に誘った。
「安寿、これからあの森のなかに行ってみないか」
「えっ、でも……」
「大丈夫。俺が一緒だから怖くないだろ? きっと、池のほとりは月明かりに照らされてきれいだよ」
(池のほとり……)
その言葉に心惹かれた安寿は、航志朗にうなずいた。
安寿と航志朗は森の入り口に立った。外は真っ暗だが、だんだん目が暗闇に慣れてくる。満月に近い月明かりで意外に視界は確保できる。
安寿は航志朗に言われてロングカーディガンを手に持っている。航志朗は薄手の長袖のパジャマを着ている。昼間より多少気温は下がっているが、今夜も熱帯夜だ。草いきれのむせかえるような匂いがした。
森の入り口には朽ち果てた簡易的な木製の柵が掛かっていた。ふたりはいとも簡単にそれをまたいだ。森のなかへ入る道はずいぶんと長い間、人が通っていないらしく草に覆われていた。安寿は蚊に刺されるかもしれないとふと思った。
航志朗は安寿の手を取って歩き出した。安寿はなんとはなしに航志朗に身を寄せてしまう。航志朗は安寿に微笑みかけて訊いた。
「怖い?」
安寿は小さな声で答えた。
「少しだけ」
航志朗は笑って、つないだ手を強く握りしめた。森のなかはなぜか生き物の気配がしない。真夏の夜に虫の鳴き声でもしそうなものだが、しんと静まり返っている。しばらく歩くと、急に視界が開けて池が見えてきた。安寿が夜空を見上げると、白く光った月が出ていた。よく見ると、それは少し欠けている。
池のほとりは不思議と美しい場所だった。安寿はなぜか胸がきつくしめつけられた。大声をあげて安寿は泣き出したくなってきた。安寿は航志朗の手を離して池の近くに駆け寄って、その水面をのぞき込んだ。どこかで見たことがあるような深く暗い灰色をしていて、その水面の上にはゆらゆらと月の光の粒が揺れていた。
(……深いのかな?)と思わず安寿はしゃがんで池の水に手を伸ばした。その瞬間、後ろから航志朗の怒鳴り声が聞こえた。
「その水に触るな!」
安寿は背中をびくっとさせて、あわてて手を引っ込めた。すぐに航志朗は安寿のそばにやって来て、安寿に謝った。
「ごめん、安寿。急に怒鳴ったりして。いつも祖母が言っていたんだ、『池の水には絶対に触るな』って」
「……わかりました」
安寿は航志朗を見上げてまた気づいた。航志朗がとても哀しい瞳をしていることに。安寿はまた胸がしめつけられた。
押し黙った航志朗は池のほとりに立っている大きな樫の木に手を触れて懐かしそうに見上げた。そして、航志朗はその根元に座り込んで腕を組み目を閉じた。安寿には、その樫の木が航志朗を森の外の何かから守っているかのように見えた。
ふと目を開けた航志朗は安寿に手をさしのべて言った。
「安寿、ここにおいで」
安寿は航志朗のそばに行って、航志朗の隣に座った。航志朗は安寿をそっと後ろから抱きしめた。安寿は思わず身を固くしてうつむいた。安寿のその態度に、航志朗は胸がえぐられるように苦しくなった。
(やっぱり、俺は、安寿に愛されていないんだな)
しばらくふたりの間に沈黙の時間か流れた。
やがて、遠い目をした航志朗はずっと一人きりで抱え込んできた秘密をもらすように小声で語った。
「子どもの頃、夜眠れなくて、よく一人であの家から抜け出して、ここに来ていたんだ。ああ、一人じゃなかった。アンと一緒に」
「……アン?」
安寿は航志朗のシンガポールにいる彼女のことを思い出して胸がふさいだ。航志朗とこんなところでこんなことをしていていいのだろうかと罪悪感で頭がいっぱいになった。それと同時に、彼女がいるのにどうして航志朗は自分に触れてくるんだろうという怒りもわいてくる。
「アンは、子どもの頃に飼っていた犬の名前だ。よくここで、こうやってアンを抱いて長い夜を過ごした」
航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。一瞬、安寿は胸の鼓動が早まったが、すぐに思い直した。
(きっと、私のことを犬のアンだと思っているんだ……)
またしばらくふたりは沈黙した。
航志朗は白い霧がかかるような静かな声で言った。
「俺がイギリスへ発った後に、アンはここで冷たくなっていたそうだ。伊藤さんと咲さんが見つけてくれたんだ。ずいぶん後になってからそのことを聞いた」
胸を痛めながら安寿は振り返って航志朗の顔を見つめた。航志朗は森の樹々を見てつぶやいた。
「アンはこの森に眠っているんだ……」
航志朗の陰る琥珀色の瞳を見て、安寿は胸に哀しさがこみあげてきた。
安寿の肩に航志朗が顔を埋めた。その温もりに、安寿はどうしても航志朗を好きだと思う気持ちがあふれ出てきてしまう。心のかたすみに罪悪感とやるせない怒りを抱えてしまっていても、安寿は航志朗がどうしようもなく愛おしかった。
(私は彼が好き。本当に好き。彼のためなら、なんでもしてあげたい……)
安寿は後ろから自分に回された航志朗の腕を両手で強く抱きしめた。その感触に驚いた航志朗が顔を傾けて安寿の横顔を見た。
この池のほとりに来た時から、安寿は不思議な香りがすることに気づいていた。ずっとなんの香りだろうと安寿は思っていた。樹木の香りを濃くしたような、とても心地よい香りだ。安寿は身体の力が抜けてきて、頭のなかがぼんやりとしてきた。航志朗の身体の匂いも相まって、安寿はこの二つの匂いに酔いはじめて意識がだんだんと薄れていった。
安寿を抱きしめた航志朗は自分を押さえられなくなっていた。そこへ安寿が自分の腕にしがみついてきた。航志朗は安寿を自分の方へ向き直らせた。近距離でふたりは互いの瞳を見つめ合った。月明かりに照らされた安寿を見つめて、胸の鼓動が急激に早まった航志朗は切実に思いつめた。
(今、キスしたら、俺は安寿に何をするかわからない。きっと、ここで安寿を……)
あせった航志朗は全力で踏み止まろうとした。
その時だった。安寿が航志朗の首に両腕を回してきて、航志朗の唇に自分の唇を重ねた。ぎこちなく何度も。驚いた航志朗は身動きが取れなくなった。
「あ、安寿……」
しかし、安寿は止めない。何度も、何度も、航志朗に唇を重ねた。
闇夜の森のなかに、ふたりが唇を重ねる音が響く。何度も、何度も。
安寿はずっと目を開けて航志朗の琥珀色の瞳を見ている。しかし、その安寿の瞳は真っ黒で焦点が合っていない。
航志朗は我慢できなくなって安寿を力強く抱きしめた。そのまま航志朗は安寿を草むらに押し倒し、安寿のパジャマのボタンを外してその首筋に口づけた。
安寿は抵抗しない。安寿は航志朗の身体に腕を回して抱きついて吐息をもらした。わずかに残存している理性で、航志朗は声なき声で叫んだ。
(安寿! 俺は君を傷つけてしまう)
その瞬間、航志朗は後ろから殴られたような眠気に襲われて、安寿の上に突っ伏して目を閉じた。安寿は航志朗をぼんやりと見つめてから、航志朗の身体に腕を回して静かに目を閉じた。
池の水はゆらゆらと揺れて渦を巻き、月の光を吞み込んだ。
(そんなことをしたら、きっと……)
安寿は両手を航志朗の胸に当てて少し身体を離してから言った。
「あ、あの、航志朗さん。私が、今、描いている絵を見てくださいませんか」
我に返った航志朗が黙ってうなずいた。
ふたりはアトリエに向かった。外はもう夜の暗闇に包まれている。だんだん安寿は怖くなってきた。
(どうして? 昨日の夜は、一人でもぜんぜん大丈夫だったのに……)
天井のライトをつけてアトリエの中に入ると、ふたりは安寿のイーゼルの前に立った。
そこには緑色の森が描かれていた。だが、ただの森ではない。安寿のなかに確かに存在する絵への情熱がほとばしっている。壮絶でみずみずしい若さにあふれた絵だった。航志朗は戦慄を覚えて言葉を失った。航志朗のその想いとは裏腹に、胸の鼓動を早めた安寿はうつむいて思った。
(……やっぱり、彼に絵を見られるのって、ものすごく恥ずかしい)
航志朗はやっとひとこと口に出した。
「安寿、今の君は、……緑の時代、なんだな」
ふとアトリエの窓の外を見た航志朗は安寿に尋ねた。
「安寿、君は、あの森のなかへ行ったことがあるのか」
すぐに安寿は答えた。
「いいえ、ありません。あの森は、岸家の敷地ではないと伊藤さんから聞いたので」
「今はな。昔は岸家が代々所有していた。祖父が亡くなった時に売却したんだ」
安寿は航志朗がとても哀しい色の瞳をしていることに気づいた。
しばらく沈黙していた航志朗が突然思いついて安寿を陽気に誘った。
「安寿、これからあの森のなかに行ってみないか」
「えっ、でも……」
「大丈夫。俺が一緒だから怖くないだろ? きっと、池のほとりは月明かりに照らされてきれいだよ」
(池のほとり……)
その言葉に心惹かれた安寿は、航志朗にうなずいた。
安寿と航志朗は森の入り口に立った。外は真っ暗だが、だんだん目が暗闇に慣れてくる。満月に近い月明かりで意外に視界は確保できる。
安寿は航志朗に言われてロングカーディガンを手に持っている。航志朗は薄手の長袖のパジャマを着ている。昼間より多少気温は下がっているが、今夜も熱帯夜だ。草いきれのむせかえるような匂いがした。
森の入り口には朽ち果てた簡易的な木製の柵が掛かっていた。ふたりはいとも簡単にそれをまたいだ。森のなかへ入る道はずいぶんと長い間、人が通っていないらしく草に覆われていた。安寿は蚊に刺されるかもしれないとふと思った。
航志朗は安寿の手を取って歩き出した。安寿はなんとはなしに航志朗に身を寄せてしまう。航志朗は安寿に微笑みかけて訊いた。
「怖い?」
安寿は小さな声で答えた。
「少しだけ」
航志朗は笑って、つないだ手を強く握りしめた。森のなかはなぜか生き物の気配がしない。真夏の夜に虫の鳴き声でもしそうなものだが、しんと静まり返っている。しばらく歩くと、急に視界が開けて池が見えてきた。安寿が夜空を見上げると、白く光った月が出ていた。よく見ると、それは少し欠けている。
池のほとりは不思議と美しい場所だった。安寿はなぜか胸がきつくしめつけられた。大声をあげて安寿は泣き出したくなってきた。安寿は航志朗の手を離して池の近くに駆け寄って、その水面をのぞき込んだ。どこかで見たことがあるような深く暗い灰色をしていて、その水面の上にはゆらゆらと月の光の粒が揺れていた。
(……深いのかな?)と思わず安寿はしゃがんで池の水に手を伸ばした。その瞬間、後ろから航志朗の怒鳴り声が聞こえた。
「その水に触るな!」
安寿は背中をびくっとさせて、あわてて手を引っ込めた。すぐに航志朗は安寿のそばにやって来て、安寿に謝った。
「ごめん、安寿。急に怒鳴ったりして。いつも祖母が言っていたんだ、『池の水には絶対に触るな』って」
「……わかりました」
安寿は航志朗を見上げてまた気づいた。航志朗がとても哀しい瞳をしていることに。安寿はまた胸がしめつけられた。
押し黙った航志朗は池のほとりに立っている大きな樫の木に手を触れて懐かしそうに見上げた。そして、航志朗はその根元に座り込んで腕を組み目を閉じた。安寿には、その樫の木が航志朗を森の外の何かから守っているかのように見えた。
ふと目を開けた航志朗は安寿に手をさしのべて言った。
「安寿、ここにおいで」
安寿は航志朗のそばに行って、航志朗の隣に座った。航志朗は安寿をそっと後ろから抱きしめた。安寿は思わず身を固くしてうつむいた。安寿のその態度に、航志朗は胸がえぐられるように苦しくなった。
(やっぱり、俺は、安寿に愛されていないんだな)
しばらくふたりの間に沈黙の時間か流れた。
やがて、遠い目をした航志朗はずっと一人きりで抱え込んできた秘密をもらすように小声で語った。
「子どもの頃、夜眠れなくて、よく一人であの家から抜け出して、ここに来ていたんだ。ああ、一人じゃなかった。アンと一緒に」
「……アン?」
安寿は航志朗のシンガポールにいる彼女のことを思い出して胸がふさいだ。航志朗とこんなところでこんなことをしていていいのだろうかと罪悪感で頭がいっぱいになった。それと同時に、彼女がいるのにどうして航志朗は自分に触れてくるんだろうという怒りもわいてくる。
「アンは、子どもの頃に飼っていた犬の名前だ。よくここで、こうやってアンを抱いて長い夜を過ごした」
航志朗は安寿に回した腕の力を強めた。一瞬、安寿は胸の鼓動が早まったが、すぐに思い直した。
(きっと、私のことを犬のアンだと思っているんだ……)
またしばらくふたりは沈黙した。
航志朗は白い霧がかかるような静かな声で言った。
「俺がイギリスへ発った後に、アンはここで冷たくなっていたそうだ。伊藤さんと咲さんが見つけてくれたんだ。ずいぶん後になってからそのことを聞いた」
胸を痛めながら安寿は振り返って航志朗の顔を見つめた。航志朗は森の樹々を見てつぶやいた。
「アンはこの森に眠っているんだ……」
航志朗の陰る琥珀色の瞳を見て、安寿は胸に哀しさがこみあげてきた。
安寿の肩に航志朗が顔を埋めた。その温もりに、安寿はどうしても航志朗を好きだと思う気持ちがあふれ出てきてしまう。心のかたすみに罪悪感とやるせない怒りを抱えてしまっていても、安寿は航志朗がどうしようもなく愛おしかった。
(私は彼が好き。本当に好き。彼のためなら、なんでもしてあげたい……)
安寿は後ろから自分に回された航志朗の腕を両手で強く抱きしめた。その感触に驚いた航志朗が顔を傾けて安寿の横顔を見た。
この池のほとりに来た時から、安寿は不思議な香りがすることに気づいていた。ずっとなんの香りだろうと安寿は思っていた。樹木の香りを濃くしたような、とても心地よい香りだ。安寿は身体の力が抜けてきて、頭のなかがぼんやりとしてきた。航志朗の身体の匂いも相まって、安寿はこの二つの匂いに酔いはじめて意識がだんだんと薄れていった。
安寿を抱きしめた航志朗は自分を押さえられなくなっていた。そこへ安寿が自分の腕にしがみついてきた。航志朗は安寿を自分の方へ向き直らせた。近距離でふたりは互いの瞳を見つめ合った。月明かりに照らされた安寿を見つめて、胸の鼓動が急激に早まった航志朗は切実に思いつめた。
(今、キスしたら、俺は安寿に何をするかわからない。きっと、ここで安寿を……)
あせった航志朗は全力で踏み止まろうとした。
その時だった。安寿が航志朗の首に両腕を回してきて、航志朗の唇に自分の唇を重ねた。ぎこちなく何度も。驚いた航志朗は身動きが取れなくなった。
「あ、安寿……」
しかし、安寿は止めない。何度も、何度も、航志朗に唇を重ねた。
闇夜の森のなかに、ふたりが唇を重ねる音が響く。何度も、何度も。
安寿はずっと目を開けて航志朗の琥珀色の瞳を見ている。しかし、その安寿の瞳は真っ黒で焦点が合っていない。
航志朗は我慢できなくなって安寿を力強く抱きしめた。そのまま航志朗は安寿を草むらに押し倒し、安寿のパジャマのボタンを外してその首筋に口づけた。
安寿は抵抗しない。安寿は航志朗の身体に腕を回して抱きついて吐息をもらした。わずかに残存している理性で、航志朗は声なき声で叫んだ。
(安寿! 俺は君を傷つけてしまう)
その瞬間、航志朗は後ろから殴られたような眠気に襲われて、安寿の上に突っ伏して目を閉じた。安寿は航志朗をぼんやりと見つめてから、航志朗の身体に腕を回して静かに目を閉じた。
池の水はゆらゆらと揺れて渦を巻き、月の光を吞み込んだ。