今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第2節
東の空が白み始めてきた。周囲がだんだん明るくなってきて、航志朗はゆっくりと意識を取り戻していた。
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
ぼんやりとだが、航志朗はすぐそばに安寿の肌の温もりと、安寿のゆったりとした胸の鼓動を感じた。目を開けた瞬間、航志朗は我が目を疑った。航志朗は安寿のはだけた胸に顔をうずめていた。安寿はパジャマの下にキャミソールを着ているが、左側の胸が露わになっている。しばらく呆然と見とれていた航志朗は急に真っ赤になって、あわてて安寿を起こさないようにキャミソールのストラップを上げて、パジャマのボタンを留めていった。それから、航志朗は落ちていた安寿のロングカーディガンを拾って付着していた土を払い、そっと安寿に掛けた。
(きれいな胸をしているんだな。絵に描いてみたいと思ってしまうほどに……)
昨晩とは打って変わった明るい風景が目の前に広がっている。航志朗は見慣れたはずの池のほとりが少し狭くなったように感じた。
かたわらで眠っている安寿は、朝日に照らされて輪郭が薄くなり淡い光を放っている。オアフにあるあの絵のように。そのこの世のものではないような透き通った美しさに、航志朗はただ心が震えていた。あまりにも繊細ではかなく、少しでも触れようものなら消えてしまいそうだ。それでも航志朗は安寿を抱きしめた。どうしようもなく航志朗は安寿のことを心の底から求めた。やがて、安寿が航志朗の腕の中で身動きをし始めて、その目を開いた。
「安寿……」
航志朗は愛おしそうに安寿を見つめた。
安寿は生まれたばかりの幼子のようなまなざしで、初めて見る光景を眺めた。大きな樹木に豊かに生え重なる葉のすき間から光がこぼれて降り注いでいる。安寿はそれをすくうように両手の手のひらを空に伸ばすと、嬉しそうに微笑んだ。
それは何かの儀式のようだった。その一部始終を見守った航志朗は、そっと安寿の頬に口づけた。くすぐったそうに目を細めた安寿は航志朗を見て呼びかけた。
「航志朗さん……」
航志朗は安寿の目を見てうなずいた。
安寿と航志朗はゆっくりと起き上がって目の前の池を見つめた。灰色の池の水面は朝日を反射して輝いていた。
「私たち、ここでひと晩過ごしたんですね。私、こんなの初めてです」と安寿は楽しそうに笑った。
ふたりは立ち上がり、髪やパジャマについた枯葉や土を取り合った。そして、自然に手をつないで池のほとりを後にした。
岸家の屋敷に戻る道を歩きながら航志朗が言った。
「真夏とはいえ、ひと晩じゅう外で過ごしたんだから、君は身体が冷えたんじゃないか。家に戻ったら風呂に入って身体を温めたほうがいい」
「そうですね。航志朗さん、一緒に入りましょうか?」
その突然の安寿の言葉に、航志朗の思考は即座にブラックアウトした。
(なんだ、こういうことだったのか……)
航志朗はうなだれながら安寿に気づかれないように深いため息をついた。パジャマを着たままのふたりは岸家の浴室のバスタブのふちに並んで腰かけている。バスタブには容量の半分ほどの熱い湯が張られていて、ふたりはパジャマのズボンの裾をまくり上げて両足をその湯に浸している。足湯をしているのだ。
だんだん足の指先から身体が温まってきて気持ちよくなってきた。くつろいだ安寿は思わず小声で歌い始めた。それは不思議なゆらぎを持った愛らしい歌声だった。航志朗が目を見張って安寿を見つめた。航志朗が耳をすまして聴いていることに気づいた安寿は歌うのをやめて、少し赤くなって下を向いた。
「驚いたな。その歌、聴いたことがあるよ。オックスフォードで住んでいたフラットの大家さんが掃除しながら歌っていた。もちろん英語で」
「おばあちゃんから教えてもらった歌なんです。ずいぶん昔の歌みたいです」
「それってアイルランドの古いフォークソングだよ。翻訳されて日本に入って来たのかもな。安寿、もう一回歌ってみて。俺は英語で歌うから」
安寿はとても恥ずかしかったが、やがてふたりは一緒に歌い始めた。
その時、咲が岸家の裏の小道を歩いて屋敷の勝手口に向かっていた。伊藤夫妻は安寿のことが心配で、旅行の予定を一日短縮して昨夜帰宅していた。
咲は岸家の浴室の窓から湯気が出ていることに気がついた。
(あら? 安寿さま、朝風呂に入っていらっしゃるのかしら)
ふふと肩をすぼめて微笑んだ咲は、突然、腰を抜かすほど驚いた。航志朗の笑い声が聞こえてきたのだ。安寿の可愛らしい笑い声も後に続いて聞こえてきた。咲は思わず顔を真っ赤にしてつぶやいた。
「あら、あら、あのおふたりったら、あらまあ……」
あわてて咲はやって来た道を引き返して行った。その顔を嬉しそうに崩しながら。
浴室の中は湯気で薄く曇ってきた。航志朗は目を落として安寿の左足を見つめた。その膝にはまだ傷痕がしみのように残っていた。航志朗は胸がしめつけられて苦しくなった。安寿が航志朗の視線に気づいて穏やかな声で言った。
「航志朗さん、大丈夫ですよ。痕はだんだん消えていっていますから」
うつむいた航志朗はつらそうに言った。
「安寿、君を傷つけてしまって、本当にすまなかった」
安寿は微笑みながら首を振った。
その時、心のなかで安寿は思っていた。
(本当は消えてほしくない。これは、私にとって大切なしるしだから)
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
ぼんやりとだが、航志朗はすぐそばに安寿の肌の温もりと、安寿のゆったりとした胸の鼓動を感じた。目を開けた瞬間、航志朗は我が目を疑った。航志朗は安寿のはだけた胸に顔をうずめていた。安寿はパジャマの下にキャミソールを着ているが、左側の胸が露わになっている。しばらく呆然と見とれていた航志朗は急に真っ赤になって、あわてて安寿を起こさないようにキャミソールのストラップを上げて、パジャマのボタンを留めていった。それから、航志朗は落ちていた安寿のロングカーディガンを拾って付着していた土を払い、そっと安寿に掛けた。
(きれいな胸をしているんだな。絵に描いてみたいと思ってしまうほどに……)
昨晩とは打って変わった明るい風景が目の前に広がっている。航志朗は見慣れたはずの池のほとりが少し狭くなったように感じた。
かたわらで眠っている安寿は、朝日に照らされて輪郭が薄くなり淡い光を放っている。オアフにあるあの絵のように。そのこの世のものではないような透き通った美しさに、航志朗はただ心が震えていた。あまりにも繊細ではかなく、少しでも触れようものなら消えてしまいそうだ。それでも航志朗は安寿を抱きしめた。どうしようもなく航志朗は安寿のことを心の底から求めた。やがて、安寿が航志朗の腕の中で身動きをし始めて、その目を開いた。
「安寿……」
航志朗は愛おしそうに安寿を見つめた。
安寿は生まれたばかりの幼子のようなまなざしで、初めて見る光景を眺めた。大きな樹木に豊かに生え重なる葉のすき間から光がこぼれて降り注いでいる。安寿はそれをすくうように両手の手のひらを空に伸ばすと、嬉しそうに微笑んだ。
それは何かの儀式のようだった。その一部始終を見守った航志朗は、そっと安寿の頬に口づけた。くすぐったそうに目を細めた安寿は航志朗を見て呼びかけた。
「航志朗さん……」
航志朗は安寿の目を見てうなずいた。
安寿と航志朗はゆっくりと起き上がって目の前の池を見つめた。灰色の池の水面は朝日を反射して輝いていた。
「私たち、ここでひと晩過ごしたんですね。私、こんなの初めてです」と安寿は楽しそうに笑った。
ふたりは立ち上がり、髪やパジャマについた枯葉や土を取り合った。そして、自然に手をつないで池のほとりを後にした。
岸家の屋敷に戻る道を歩きながら航志朗が言った。
「真夏とはいえ、ひと晩じゅう外で過ごしたんだから、君は身体が冷えたんじゃないか。家に戻ったら風呂に入って身体を温めたほうがいい」
「そうですね。航志朗さん、一緒に入りましょうか?」
その突然の安寿の言葉に、航志朗の思考は即座にブラックアウトした。
(なんだ、こういうことだったのか……)
航志朗はうなだれながら安寿に気づかれないように深いため息をついた。パジャマを着たままのふたりは岸家の浴室のバスタブのふちに並んで腰かけている。バスタブには容量の半分ほどの熱い湯が張られていて、ふたりはパジャマのズボンの裾をまくり上げて両足をその湯に浸している。足湯をしているのだ。
だんだん足の指先から身体が温まってきて気持ちよくなってきた。くつろいだ安寿は思わず小声で歌い始めた。それは不思議なゆらぎを持った愛らしい歌声だった。航志朗が目を見張って安寿を見つめた。航志朗が耳をすまして聴いていることに気づいた安寿は歌うのをやめて、少し赤くなって下を向いた。
「驚いたな。その歌、聴いたことがあるよ。オックスフォードで住んでいたフラットの大家さんが掃除しながら歌っていた。もちろん英語で」
「おばあちゃんから教えてもらった歌なんです。ずいぶん昔の歌みたいです」
「それってアイルランドの古いフォークソングだよ。翻訳されて日本に入って来たのかもな。安寿、もう一回歌ってみて。俺は英語で歌うから」
安寿はとても恥ずかしかったが、やがてふたりは一緒に歌い始めた。
その時、咲が岸家の裏の小道を歩いて屋敷の勝手口に向かっていた。伊藤夫妻は安寿のことが心配で、旅行の予定を一日短縮して昨夜帰宅していた。
咲は岸家の浴室の窓から湯気が出ていることに気がついた。
(あら? 安寿さま、朝風呂に入っていらっしゃるのかしら)
ふふと肩をすぼめて微笑んだ咲は、突然、腰を抜かすほど驚いた。航志朗の笑い声が聞こえてきたのだ。安寿の可愛らしい笑い声も後に続いて聞こえてきた。咲は思わず顔を真っ赤にしてつぶやいた。
「あら、あら、あのおふたりったら、あらまあ……」
あわてて咲はやって来た道を引き返して行った。その顔を嬉しそうに崩しながら。
浴室の中は湯気で薄く曇ってきた。航志朗は目を落として安寿の左足を見つめた。その膝にはまだ傷痕がしみのように残っていた。航志朗は胸がしめつけられて苦しくなった。安寿が航志朗の視線に気づいて穏やかな声で言った。
「航志朗さん、大丈夫ですよ。痕はだんだん消えていっていますから」
うつむいた航志朗はつらそうに言った。
「安寿、君を傷つけてしまって、本当にすまなかった」
安寿は微笑みながら首を振った。
その時、心のなかで安寿は思っていた。
(本当は消えてほしくない。これは、私にとって大切なしるしだから)