今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その三時間後の正午すぎ、安寿と航志朗を乗せた車は、長野県の高原にある近現代美術館に到着した。
岸家の屋敷を出た時は雲ひとつない晴天だったのだが、高速道路を降りてから高原への道を上るにつれて雲行きが怪しくなってきた。ときおり小雨が降ってきて、ワイパーが規則的に動く音が静かな車内に響いた。
安寿と航志朗はずっと沈黙していた。だが、ふたりは互いの存在をめいっぱい感じていた。見晴らしがよいはずの山の斜面の広大な敷地に建てられた美術館は、濃い霧に覆われている。屋外の展示場には現代彫刻が多数展示されているはずだが視界が悪く、作品の一部分しか見えなかった。とりあえずふたりは駐車場に停めた車の中で、咲が用意してくれたサンドイッチを食べた。
「すごい霧ですね。何も見えない」
安寿は車の窓の外を見回した。
「怖い?」と航志朗が冷めてしまったホットコーヒーを飲みながら聞いた。
安寿は首を大きく振ってから思った。
(何も見えないのが怖いんじゃなくて、これから起きることが見えなくて怖い)
サンドイッチと一緒に入っていた金沢土産の饅頭を食べ終えてから、ふたりは車を降りて霧のなかを美術館に向かった。外は強風が吹きつけて肌寒く、白と黒のギンガムチェックのリネンワンピースにコットンのカーディガンを羽織っているだけの安寿は思わず身を縮めた。そんな安寿を航志朗は強風から守るように支えた。航志朗は安寿に「俺のジャケットを着るか?」と勧めるように尋ねた。安寿は「大丈夫です」と首を振って言った。さりげない航志朗の心遣いに安寿はほっと安心感を抱いた。
(やっぱり、航志朗さんと一緒にいられて、……嬉しい)と安寿はひそかに思った。
美術館に入館すると悪天候のせいか館内は閑散としていた。見かけたのは老夫婦と小学生くらいの兄妹を連れた家族だけだった。航志朗も安寿も初めて訪れた美術館だ。航志朗は第一展示室の入口に掲示されてあった美術館の概要を腕を組んで読み始めた。安寿は先に展示室に入った。二十世紀までの近代美術作品が並んでいた。それは充実したコレクションで、興味を覚えた安寿はひとりで次々に観て行った。
ふと航志朗は隣に安寿がいないことに気づいて急いで第一展示室に入ったが、そこに安寿の姿はなかった。
(あれ? 安寿、どこに行ったんだ)
航志朗はその場に展示されている作品を観ずに館内を走って行き、安寿を探した。安寿は、第一展示室の最後の作品に見入っていた。
(まったくマイペースだよな、安寿は。俺と一緒に観るっていう発想がないんだな)
ため息をつきながら航志朗は安寿の後ろから近づき、安寿が熱心に観ている作品をひと目見て、航志朗は思わず顔を赤らめた。
それは裸婦像だった。髪の長い裸の女が両腕を上にあげて草原の上に横たわっている油彩画だ。見ようによっては、かなり艶めかしい絵だ。安寿はその作品の前に立ちつくしていた。安寿は航志朗に気がつくと、航志朗を見上げてつぶやくように言った。
「なかなか見ないアングルの作品ですよね。きっと、この絵を描いた画家とモデルは親密な関係だったんでしょうね。夫婦とか、恋人どうしとか」
その安寿の言葉に航志朗はとても口には出せないことを思った。
(確かに。このアングルはモデルにまたがらないと見えない視点で描かれている。つまり……)
思わず航志朗は隣の安寿の横顔を見た。
(十八でこの作品に真正面から対峙できるなんて並外れているよな。やっぱり、安寿は生まれながらのアーティストなんだな)
航志朗は急に不安になって、思わず安寿に訊いてしまった。
「安寿。父が君を裸婦像のモデルにしたいって言い出したら、どうするんだ?」
「えっ?」
突然そう訊かれて、最初は航志朗にからかわれているのかと思った安寿だったが、航志朗の目は真剣だった。
安寿は恥ずかしそうに答えた。
「それは絶対にないです」
「どうして、そう言いきれるんだ?」
安寿はうつむいて答えた。
「だって私は胸が小さいので、裸婦像のモデルにはなれないです。岸先生が私の裸を見たら、きっとがっかりされると思います」
すぐに「安寿、裸婦像の美しさは胸の大きさにはまったく関係ない」と航志朗は安寿に断言したかった。もちろん「裸婦像」を「女性」に置き換えてもいい。航志朗は西洋美術史の修士号を取得しているのだ。だが、まったくもって説得力がないのでやめておいた。
航志朗は深いため息をついて思った。
(今朝の君は本当にきれいだったよ。触れてしまったら、きっと罪悪感を持ってしまうほどに)
それから航志朗は安寿の言葉にただならない危機感を抱いた。
(安寿。君は父が脱げって言ったら、脱ぐのか……)
安寿と航志朗は次の第二展示室に入った。そこには日本の近代絵画と彫刻作品が並んでいた。航志朗は安寿の手をしっかりと握った。安寿が勝手に離れて行かないように。安寿は、一瞬、胸がどきっとしたが、すぐに展示された作品に夢中になった。安寿は航志朗をそっちのけにして、その握られた手を引っぱって観て回った。その安寿のありのままの態度に航志朗は両肩をすくませて苦笑いした。
最後の第三展示室は二階にあった。昨日聞いた安寿の話を思い出した航志朗は、周囲を見回してから階段の踊り場で立ち止まり、安寿を壁際に寄せて甘くささやいた。
「安寿、俺が上書きしてあげようか」
そう言うと、航志朗は安寿に顔を近づけた。安寿は冗談だと思って、思わず笑い出した。そして、それは未遂に終わった。安寿はくすくす笑いながら言った。
「航志朗さんって、本当に面白いひとですね」
航志朗は苦笑を浮かべて思った。
(俺は本気だって! それにしても、突然、好きでもない男にいきなりキスされたのに、もう立ち直っているのか……)
第三展示室は日本の現代美術作品が展示されていた。安寿はそのなかの一枚の大作の前で立ち止まった。それはモノトーンのグラデーションで描かれた巨大な抽象画だった。安寿はその絵に不思議と心が惹かれつつも、とっさに胸が苦しくなって思わず顔をしかめた。すぐに安寿はその作品の前から離れようとした。その時、安寿の後ろから航志朗が驚いたように言った。
「へえ、この美術館、コーセー・ツジの作品を持っているんだ……」
安寿は心の底からわき上がってくる嫌悪感を感じながら、航志朗に尋ねた。
「コーセー・ツジ?」
「ああ。ツジは、ニューヨークのアートシーンで五年間だけ華々しく活躍した日本人画家だよ。彼の作品をニューヨークの現代美術館で観たことがある。今から十年以上前に、ツジは、ある日、突然、失踪して画壇から消えた。今でも彼の作品はアートオークションで高額で取引されているんだ。日本にも彼の作品があったんだな……」と航志朗は感心したようにその作品を見つめた。
安寿は押し黙ったままでその抽象画を見上げた。
岸家の屋敷を出た時は雲ひとつない晴天だったのだが、高速道路を降りてから高原への道を上るにつれて雲行きが怪しくなってきた。ときおり小雨が降ってきて、ワイパーが規則的に動く音が静かな車内に響いた。
安寿と航志朗はずっと沈黙していた。だが、ふたりは互いの存在をめいっぱい感じていた。見晴らしがよいはずの山の斜面の広大な敷地に建てられた美術館は、濃い霧に覆われている。屋外の展示場には現代彫刻が多数展示されているはずだが視界が悪く、作品の一部分しか見えなかった。とりあえずふたりは駐車場に停めた車の中で、咲が用意してくれたサンドイッチを食べた。
「すごい霧ですね。何も見えない」
安寿は車の窓の外を見回した。
「怖い?」と航志朗が冷めてしまったホットコーヒーを飲みながら聞いた。
安寿は首を大きく振ってから思った。
(何も見えないのが怖いんじゃなくて、これから起きることが見えなくて怖い)
サンドイッチと一緒に入っていた金沢土産の饅頭を食べ終えてから、ふたりは車を降りて霧のなかを美術館に向かった。外は強風が吹きつけて肌寒く、白と黒のギンガムチェックのリネンワンピースにコットンのカーディガンを羽織っているだけの安寿は思わず身を縮めた。そんな安寿を航志朗は強風から守るように支えた。航志朗は安寿に「俺のジャケットを着るか?」と勧めるように尋ねた。安寿は「大丈夫です」と首を振って言った。さりげない航志朗の心遣いに安寿はほっと安心感を抱いた。
(やっぱり、航志朗さんと一緒にいられて、……嬉しい)と安寿はひそかに思った。
美術館に入館すると悪天候のせいか館内は閑散としていた。見かけたのは老夫婦と小学生くらいの兄妹を連れた家族だけだった。航志朗も安寿も初めて訪れた美術館だ。航志朗は第一展示室の入口に掲示されてあった美術館の概要を腕を組んで読み始めた。安寿は先に展示室に入った。二十世紀までの近代美術作品が並んでいた。それは充実したコレクションで、興味を覚えた安寿はひとりで次々に観て行った。
ふと航志朗は隣に安寿がいないことに気づいて急いで第一展示室に入ったが、そこに安寿の姿はなかった。
(あれ? 安寿、どこに行ったんだ)
航志朗はその場に展示されている作品を観ずに館内を走って行き、安寿を探した。安寿は、第一展示室の最後の作品に見入っていた。
(まったくマイペースだよな、安寿は。俺と一緒に観るっていう発想がないんだな)
ため息をつきながら航志朗は安寿の後ろから近づき、安寿が熱心に観ている作品をひと目見て、航志朗は思わず顔を赤らめた。
それは裸婦像だった。髪の長い裸の女が両腕を上にあげて草原の上に横たわっている油彩画だ。見ようによっては、かなり艶めかしい絵だ。安寿はその作品の前に立ちつくしていた。安寿は航志朗に気がつくと、航志朗を見上げてつぶやくように言った。
「なかなか見ないアングルの作品ですよね。きっと、この絵を描いた画家とモデルは親密な関係だったんでしょうね。夫婦とか、恋人どうしとか」
その安寿の言葉に航志朗はとても口には出せないことを思った。
(確かに。このアングルはモデルにまたがらないと見えない視点で描かれている。つまり……)
思わず航志朗は隣の安寿の横顔を見た。
(十八でこの作品に真正面から対峙できるなんて並外れているよな。やっぱり、安寿は生まれながらのアーティストなんだな)
航志朗は急に不安になって、思わず安寿に訊いてしまった。
「安寿。父が君を裸婦像のモデルにしたいって言い出したら、どうするんだ?」
「えっ?」
突然そう訊かれて、最初は航志朗にからかわれているのかと思った安寿だったが、航志朗の目は真剣だった。
安寿は恥ずかしそうに答えた。
「それは絶対にないです」
「どうして、そう言いきれるんだ?」
安寿はうつむいて答えた。
「だって私は胸が小さいので、裸婦像のモデルにはなれないです。岸先生が私の裸を見たら、きっとがっかりされると思います」
すぐに「安寿、裸婦像の美しさは胸の大きさにはまったく関係ない」と航志朗は安寿に断言したかった。もちろん「裸婦像」を「女性」に置き換えてもいい。航志朗は西洋美術史の修士号を取得しているのだ。だが、まったくもって説得力がないのでやめておいた。
航志朗は深いため息をついて思った。
(今朝の君は本当にきれいだったよ。触れてしまったら、きっと罪悪感を持ってしまうほどに)
それから航志朗は安寿の言葉にただならない危機感を抱いた。
(安寿。君は父が脱げって言ったら、脱ぐのか……)
安寿と航志朗は次の第二展示室に入った。そこには日本の近代絵画と彫刻作品が並んでいた。航志朗は安寿の手をしっかりと握った。安寿が勝手に離れて行かないように。安寿は、一瞬、胸がどきっとしたが、すぐに展示された作品に夢中になった。安寿は航志朗をそっちのけにして、その握られた手を引っぱって観て回った。その安寿のありのままの態度に航志朗は両肩をすくませて苦笑いした。
最後の第三展示室は二階にあった。昨日聞いた安寿の話を思い出した航志朗は、周囲を見回してから階段の踊り場で立ち止まり、安寿を壁際に寄せて甘くささやいた。
「安寿、俺が上書きしてあげようか」
そう言うと、航志朗は安寿に顔を近づけた。安寿は冗談だと思って、思わず笑い出した。そして、それは未遂に終わった。安寿はくすくす笑いながら言った。
「航志朗さんって、本当に面白いひとですね」
航志朗は苦笑を浮かべて思った。
(俺は本気だって! それにしても、突然、好きでもない男にいきなりキスされたのに、もう立ち直っているのか……)
第三展示室は日本の現代美術作品が展示されていた。安寿はそのなかの一枚の大作の前で立ち止まった。それはモノトーンのグラデーションで描かれた巨大な抽象画だった。安寿はその絵に不思議と心が惹かれつつも、とっさに胸が苦しくなって思わず顔をしかめた。すぐに安寿はその作品の前から離れようとした。その時、安寿の後ろから航志朗が驚いたように言った。
「へえ、この美術館、コーセー・ツジの作品を持っているんだ……」
安寿は心の底からわき上がってくる嫌悪感を感じながら、航志朗に尋ねた。
「コーセー・ツジ?」
「ああ。ツジは、ニューヨークのアートシーンで五年間だけ華々しく活躍した日本人画家だよ。彼の作品をニューヨークの現代美術館で観たことがある。今から十年以上前に、ツジは、ある日、突然、失踪して画壇から消えた。今でも彼の作品はアートオークションで高額で取引されているんだ。日本にも彼の作品があったんだな……」と航志朗は感心したようにその作品を見つめた。
安寿は押し黙ったままでその抽象画を見上げた。