今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ふたりは美術館の外に出て、濃い霧の中を車に戻った。無言で航志朗はエンジンをかけた。車が発進すると安寿は航志朗に尋ねた。
「航志朗さん、今夜はどこに泊るんですか?」
航志朗はにやっと笑って答えた。
「雲の上だ」
思わず安寿は首をかしげた。
安寿と航志朗を乗せた車はヘッドライトを灯して、数メートルしか視界がきかない道を低速でさらに上って行った。やがて、行き止まりになっている駐車場に着いた。霧に覆われて境界線が見えないが、そこには意外にもたくさんの車が停まっていて、県外からのナンバープレートが多かった。
航志朗は慎重に車を駐車して言った。
「車を降りてホテルの送迎バスに乗り換える。この先は自然保護区域で、マイカー規制になっているんだ」
航志朗はスマートフォンの画面を確認した。
「もうすぐバスが来る。行こう」
ふたりは車を降りて、駐車場にある山小屋風の建物の中に入った。待合室では数組の客が小さなストーブに当たりながらバスを待っていた。やがて、頑丈そうな大型バスがやって来て、ふたりはそのバスに乗り込んだ。
かなり急な坂道をバスは登って行く。外は霧でまったく何も見えない。安寿はどこに連れて行かれるのだろうと不安になって、航志朗の顔をのぞき込んだ。航志朗は楽しそうに安寿に笑いかけてうなずくと、安寿の手を握りしめた。
それから二十分ほどでホテルの前に到着した。霧はさらに濃くなっていて、ホテルのエントランスしか見えなかった。ふたりが中に入ると真夏だというのに、ここでも石油ストーブが赤々とたかれていた。フロントの前でウエルカムドリンクの温かい自家製しょうが湯がふるまわれ、それを啜った安寿はほっとひと息ついた。航志朗はチェックインの手続きをしてカードキーを持って戻って来た。ホテルの若い男性スタッフがふたりを部屋に案内した。
そこは居心地のよさそうなスイートルームだった。暖められた部屋はとても広く、ダイニングテーブルを配したパーラールームや和室もあってマンションの一室のようだった。安寿はキングサイズのベッドをちらっと見て足がすくんだ。そのベッドルームに隣接してガラス張りのバスルームがあった。窓の外は真っ白で何も見えない。ジャケットを脱いだ航志朗がベッドに腰掛けて腕のストレッチをしながら言った。
「気に入った? 今、俺たちは、標高二千メートルにいる。雲の上だよ。霧でわからないけど」
安寿は世界のかたすみに航志朗と二人きりで一緒にいることを意識した。
(もう、どこにも逃げられないって感じがする。何から逃げるのかわからないけど)
そう思いながら安寿は航志朗を見つめた。
おもむろに航志朗はアッパーシーツを上げて、毛布の中に入りベッドに横になった。
「久しぶりのロングドライブだったな」とつぶやきながら航志朗は片腕で両目を覆った。
窓の外から風が吹きすさぶ音がしてきた。安寿は無言で窓際の椅子に座り、二重のガラス窓の外に目を凝らした。すると、霧の隙間に微かだが緑色の急な尾根らしきものが一瞬見えた。
毛布にくるまったままの航志朗が安寿に声をかけた。
「安寿、ここにおいで」
航志朗に言われるがままに、安寿は緊張で身体が硬くなりながらも横になった航志朗の隣に座った。すぐに航志朗は手を伸ばして、安寿を毛布の中に引き入れた。
安寿は思わず声をあげた。
「あ、あの!」
航志朗は安寿を腕の中に抱きしめながら小声で言った。
「ちょっと疲れた。少し休む」
目を閉じた航志朗は、すぐに寝息を立てはじめた。安寿はその寝顔を間近で見つめた。眠ってしまった航志朗はあどけない顔をしていて、安寿は航志朗への愛おしい想いがあふれ出てくるのを押さえられなかった。
今、ここに、航志朗と一緒にいることを、安寿は惜しむように精いっぱい感じていた。
外の白い霧は、決して変えられない過去現在未来がある下界から守ってくれているように、安寿と航志朗を覆っていた。
航志朗の温もりを感じながら目を閉じた安寿はこのまま少し眠ろうと思ったが、いっこうに安寿は眠れなかった。腕時計を見ると午後四時だった。ふと安寿はホテルの中を見回ってみたくなって、航志朗を起こさないように静かにベッドから抜け出して、部屋の外へ出て行った。
「航志朗さん、今夜はどこに泊るんですか?」
航志朗はにやっと笑って答えた。
「雲の上だ」
思わず安寿は首をかしげた。
安寿と航志朗を乗せた車はヘッドライトを灯して、数メートルしか視界がきかない道を低速でさらに上って行った。やがて、行き止まりになっている駐車場に着いた。霧に覆われて境界線が見えないが、そこには意外にもたくさんの車が停まっていて、県外からのナンバープレートが多かった。
航志朗は慎重に車を駐車して言った。
「車を降りてホテルの送迎バスに乗り換える。この先は自然保護区域で、マイカー規制になっているんだ」
航志朗はスマートフォンの画面を確認した。
「もうすぐバスが来る。行こう」
ふたりは車を降りて、駐車場にある山小屋風の建物の中に入った。待合室では数組の客が小さなストーブに当たりながらバスを待っていた。やがて、頑丈そうな大型バスがやって来て、ふたりはそのバスに乗り込んだ。
かなり急な坂道をバスは登って行く。外は霧でまったく何も見えない。安寿はどこに連れて行かれるのだろうと不安になって、航志朗の顔をのぞき込んだ。航志朗は楽しそうに安寿に笑いかけてうなずくと、安寿の手を握りしめた。
それから二十分ほどでホテルの前に到着した。霧はさらに濃くなっていて、ホテルのエントランスしか見えなかった。ふたりが中に入ると真夏だというのに、ここでも石油ストーブが赤々とたかれていた。フロントの前でウエルカムドリンクの温かい自家製しょうが湯がふるまわれ、それを啜った安寿はほっとひと息ついた。航志朗はチェックインの手続きをしてカードキーを持って戻って来た。ホテルの若い男性スタッフがふたりを部屋に案内した。
そこは居心地のよさそうなスイートルームだった。暖められた部屋はとても広く、ダイニングテーブルを配したパーラールームや和室もあってマンションの一室のようだった。安寿はキングサイズのベッドをちらっと見て足がすくんだ。そのベッドルームに隣接してガラス張りのバスルームがあった。窓の外は真っ白で何も見えない。ジャケットを脱いだ航志朗がベッドに腰掛けて腕のストレッチをしながら言った。
「気に入った? 今、俺たちは、標高二千メートルにいる。雲の上だよ。霧でわからないけど」
安寿は世界のかたすみに航志朗と二人きりで一緒にいることを意識した。
(もう、どこにも逃げられないって感じがする。何から逃げるのかわからないけど)
そう思いながら安寿は航志朗を見つめた。
おもむろに航志朗はアッパーシーツを上げて、毛布の中に入りベッドに横になった。
「久しぶりのロングドライブだったな」とつぶやきながら航志朗は片腕で両目を覆った。
窓の外から風が吹きすさぶ音がしてきた。安寿は無言で窓際の椅子に座り、二重のガラス窓の外に目を凝らした。すると、霧の隙間に微かだが緑色の急な尾根らしきものが一瞬見えた。
毛布にくるまったままの航志朗が安寿に声をかけた。
「安寿、ここにおいで」
航志朗に言われるがままに、安寿は緊張で身体が硬くなりながらも横になった航志朗の隣に座った。すぐに航志朗は手を伸ばして、安寿を毛布の中に引き入れた。
安寿は思わず声をあげた。
「あ、あの!」
航志朗は安寿を腕の中に抱きしめながら小声で言った。
「ちょっと疲れた。少し休む」
目を閉じた航志朗は、すぐに寝息を立てはじめた。安寿はその寝顔を間近で見つめた。眠ってしまった航志朗はあどけない顔をしていて、安寿は航志朗への愛おしい想いがあふれ出てくるのを押さえられなかった。
今、ここに、航志朗と一緒にいることを、安寿は惜しむように精いっぱい感じていた。
外の白い霧は、決して変えられない過去現在未来がある下界から守ってくれているように、安寿と航志朗を覆っていた。
航志朗の温もりを感じながら目を閉じた安寿はこのまま少し眠ろうと思ったが、いっこうに安寿は眠れなかった。腕時計を見ると午後四時だった。ふと安寿はホテルの中を見回ってみたくなって、航志朗を起こさないように静かにベッドから抜け出して、部屋の外へ出て行った。