今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ふいにふたりは声をかけられた。あの中年の男だった。男は先程のお礼にラウンジで温かいお茶でもいかがですかと安寿と航志朗を誘った。
ところどころにエスニックなデザインのランプが灯った薄暗いラウンジに案内されて、安寿と航志朗は木彫りの椅子に座った。男が熱いホットチョコレートをトレイにのせて運んできた。ふたりは礼を言って、ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら飲んだ。
男は真壁と名乗った。真壁はこのホテルの総支配人だった。真面目な表情で真壁は安寿に尋ねた。
「失礼ですが、アーティストをされていらっしゃるのですか?」
頬を赤らめた安寿はあわてて大きく首を振った。
「いいえ、違います。私はただ絵を描くのが好きなだけです」
安寿を横目で見た航志朗は苦笑いして思った。
(おいおい、まったく自覚がないんだな。とっくに君はアーティストなのに)
真壁は安寿をしばらく見つめてから言った。
「きっと、あなたには天から授かった『美しい力』があるのでしょうね」
(『美しい力』……。岸先生が前におっしゃっていた)
安寿は青みを帯びた真壁の黒い瞳を見つめてから、ふと気になって真壁に尋ねた。
「あの、真壁さんはずっとここに住んでいらっしゃるのですか?」
真壁は目を大きく見開いて愉快そうに大笑いした。安寿は驚いた顔をして真壁を見つめた。
「これは、これは、大変失礼いたしました。確かに、私はずっとここで仕事をしていますが、月に八日ほど、山を下りて松本の自宅に帰ります。妻が私を待っていますので」
真壁は安寿の左手の薬指につけられた結婚指輪を見て目を細めた。そして、真壁は航志朗に向かって言った。
「帰るところがあるから、私は雲の上にいられるんですよ」
真壁に親しみを感じながら、航志朗は真壁に向かってうなずいた。真壁は立ち上がってふたりに微笑みかけた。
「もうすぐ霧が晴れて、美しい満天の星空が見られますよ。それから、明日の日の出もおふたりでお楽しみくださいね」と言い残して真壁は去って行った。
安寿はラウンジの窓の外を見て不思議に思った。
(外はこんなに真っ白なのに……)
安寿と航志朗が部屋に戻ると内線電話があった。これから夕食を部屋のダイニングに用意するとのことだった。
ふたりの前に新鮮な地元野菜をふんだんに使った見た目にも美しいヘルシーな料理が並んだ。安寿も航志朗もお腹いっぱい食べた。
ふと安寿はそれに気づいて航志朗に尋ねた。
「あの、航志朗さん。お仕事をしなくていいんですか?」
「するわけないだろ、休暇中だ」
そして、航志朗はにやにやしながら言った。
「そういえば、安寿。あのガラス張りのバスルーム、外から丸見えなんだけど」
よくよくバスルームを見て、安寿は驚愕した。
「ど、どうやって入るんですか!」と安寿は真っ赤になって叫んだ。
心のなかで航志朗は安寿のあわてぶりが可笑しくて仕方がなかった。航志朗はわざと平然として答えた。
「どうやってって、普通に入ればいいだろ。もしかして恥ずかしいのか? 俺たちは夫婦なんだから、別に恥ずかしがる必要はないだろ」
仏頂面をして安寿は思った。
(もうっ! こういう時に「夫婦」って持ち出すなんてずるい)
結局、安寿は航志朗の両目を部屋に置いてあった浴衣の帯で目隠しをしてからバスルームに入った。始めはゆっくりと風呂に入る気分ではなかったが、いったん湯につかるととても気持ちが良くなって、安寿はついついいつもの長風呂をしてしまった。
念のため、安寿はベッドの上で横になっている航志朗の様子をガラス越しに何回も確かめた。目隠しされた航志朗はおとなしく仰向けになっていた。何かの罰ゲームのようで安寿は肩を揺らして笑ってしまった。
安寿は慣れない浴衣をなんとか着付けてバスルームから出ると、航志朗に声をかけた。
「航志朗さん、お待たせしました。もういいですよ。お風呂どうぞ」
目隠しを取った航志朗は、初めて見る安寿の湯あがりの浴衣姿に身も心もどうしようもなくとろけた。
(なんてきれいなんだ、俺の妻は。たまらないな……)
安寿がベッドに座ってドライヤーで髪を乾かし始めると、安寿の目の前でいきなり航志朗が着ているシャツを脱いで上半身裸になった。航志朗はボトムスのフロントボタンにも手をかけた。真っ赤になった安寿はすぐに目をつむって叫んだ。
「ちょっと、ここでは脱がないでください!」
「ん、だめか?」
「当たり前です!」
航志朗はボトムスを穿いたままバスルームに行った。安寿は後ろを向いて航志朗を見ないようにしながらドライヤーのスイッチを再びオンにした。
(ああ、びっくりした。それにしても、なんてたくましい身体なの。絵に描きたいと思ってしまうくらいに……)
安寿は熱くなった頬に手を置いた。
やがて、浴衣姿の航志朗がバスルームから出て来た。航志朗は浴衣がよく似合っていて、思わず安寿は航志朗をうっとりと眺めてしまった。
航志朗は部屋に用意してあったハーブティーのティーバッグをコーヒーカップに入れて沸騰した湯を注いだ。オーガニックのカモミールティーだ。ふたりはベッドに並んで座ってハーブティーを飲んだ。日が落ちても白く霧がかかる窓の外を見やってから、航志朗はふと気になって安寿に尋ねた。
「そういえば、安寿、『霧のなかのお姫さま』って、どんな話なんだ?」
安寿はひと口カモミールティーを飲んでから言った。
「私も先程初めて聞いたお話なんです。では、あらすじだけお話ししますね」
記憶の引き出しから慎重に物語を取り出すように、ゆっくりと安寿は話し始めた。それは、穏やかな眠りを誘うような響きをもった柔らかい声色だった。
「……むかしむかし、ある森のなかに、銀色の髪を持つ美しいお姫さまがいました。
ある日、お姫さまは、突然、森にやって来た王子さまと恋に落ちました。
王子さまは、世界じゅうを守らなければならない使命を、天上にいらっしゃる神さまから授かっていました。
王子さまは、世界じゅうを旅して回らなければならなくて、ふたりはなかなか会うことができません。
来る日も来る日も、お姫さまは泣きながら、王子さまを待っていました。
やがて、お姫さまの涙が霧になって、お姫さまをおおいました。
霧におおわれたお姫さまを、森にもどってきた王子さまは、どうしても見つけることができませんでした。
すぐそばにいるのに、ふたりは会えなくなってしまいました。
それを心配した森の動物たちが、つぎつぎにお姫さまのまわりの霧を吹き飛ばそうとしましたが、残念ながら吹き飛ばすことはできませんでした……」
そこで、安寿はひと息ついた。
「で、そのあと、どうなったんだ?」
興味を持った航志朗は安寿に話の続きを催促した。
「それから、霧のなかのお姫さまは、ええと、いろいろな試練に立ち向かって、そして、自分が持つ本当の力に気づいて、自ら霧を吹き飛ばしたんです。そうしたら、お姫さまの目の前に王子さまが現れて……、ハッピーエンドです」
やっと話し終えて肩を落とした安寿は深くため息をついた。前髪をかき上げた航志朗が率直に感想を述べた。
「なるほどな。自分でつくってしまった壁に気づいて、自力で本来の自分を取り戻すって話か。けっこう現代的な話なんだな」
航志朗はコーヒーカップを置いて安寿の肩を抱き寄せた。それがあまりにも自然な行為なので、安寿は何が起こったのかを理解するのに時間がかかった。
航志朗の匂いを意識すると、安寿の胸の鼓動がいきなり弾いた。安寿はあわてて航志朗から離れようとしたが、身体が動かない。ゆっくりと航志朗はかかんで安寿の耳元でささやいた。初めて耳にする甘く誘うような声だ。
「安寿、お姫さまと王子さまが再会してからふたりでしたことを、これから俺たちもしようか」
「えっ?」
安寿は真っ赤になった。
ところどころにエスニックなデザインのランプが灯った薄暗いラウンジに案内されて、安寿と航志朗は木彫りの椅子に座った。男が熱いホットチョコレートをトレイにのせて運んできた。ふたりは礼を言って、ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら飲んだ。
男は真壁と名乗った。真壁はこのホテルの総支配人だった。真面目な表情で真壁は安寿に尋ねた。
「失礼ですが、アーティストをされていらっしゃるのですか?」
頬を赤らめた安寿はあわてて大きく首を振った。
「いいえ、違います。私はただ絵を描くのが好きなだけです」
安寿を横目で見た航志朗は苦笑いして思った。
(おいおい、まったく自覚がないんだな。とっくに君はアーティストなのに)
真壁は安寿をしばらく見つめてから言った。
「きっと、あなたには天から授かった『美しい力』があるのでしょうね」
(『美しい力』……。岸先生が前におっしゃっていた)
安寿は青みを帯びた真壁の黒い瞳を見つめてから、ふと気になって真壁に尋ねた。
「あの、真壁さんはずっとここに住んでいらっしゃるのですか?」
真壁は目を大きく見開いて愉快そうに大笑いした。安寿は驚いた顔をして真壁を見つめた。
「これは、これは、大変失礼いたしました。確かに、私はずっとここで仕事をしていますが、月に八日ほど、山を下りて松本の自宅に帰ります。妻が私を待っていますので」
真壁は安寿の左手の薬指につけられた結婚指輪を見て目を細めた。そして、真壁は航志朗に向かって言った。
「帰るところがあるから、私は雲の上にいられるんですよ」
真壁に親しみを感じながら、航志朗は真壁に向かってうなずいた。真壁は立ち上がってふたりに微笑みかけた。
「もうすぐ霧が晴れて、美しい満天の星空が見られますよ。それから、明日の日の出もおふたりでお楽しみくださいね」と言い残して真壁は去って行った。
安寿はラウンジの窓の外を見て不思議に思った。
(外はこんなに真っ白なのに……)
安寿と航志朗が部屋に戻ると内線電話があった。これから夕食を部屋のダイニングに用意するとのことだった。
ふたりの前に新鮮な地元野菜をふんだんに使った見た目にも美しいヘルシーな料理が並んだ。安寿も航志朗もお腹いっぱい食べた。
ふと安寿はそれに気づいて航志朗に尋ねた。
「あの、航志朗さん。お仕事をしなくていいんですか?」
「するわけないだろ、休暇中だ」
そして、航志朗はにやにやしながら言った。
「そういえば、安寿。あのガラス張りのバスルーム、外から丸見えなんだけど」
よくよくバスルームを見て、安寿は驚愕した。
「ど、どうやって入るんですか!」と安寿は真っ赤になって叫んだ。
心のなかで航志朗は安寿のあわてぶりが可笑しくて仕方がなかった。航志朗はわざと平然として答えた。
「どうやってって、普通に入ればいいだろ。もしかして恥ずかしいのか? 俺たちは夫婦なんだから、別に恥ずかしがる必要はないだろ」
仏頂面をして安寿は思った。
(もうっ! こういう時に「夫婦」って持ち出すなんてずるい)
結局、安寿は航志朗の両目を部屋に置いてあった浴衣の帯で目隠しをしてからバスルームに入った。始めはゆっくりと風呂に入る気分ではなかったが、いったん湯につかるととても気持ちが良くなって、安寿はついついいつもの長風呂をしてしまった。
念のため、安寿はベッドの上で横になっている航志朗の様子をガラス越しに何回も確かめた。目隠しされた航志朗はおとなしく仰向けになっていた。何かの罰ゲームのようで安寿は肩を揺らして笑ってしまった。
安寿は慣れない浴衣をなんとか着付けてバスルームから出ると、航志朗に声をかけた。
「航志朗さん、お待たせしました。もういいですよ。お風呂どうぞ」
目隠しを取った航志朗は、初めて見る安寿の湯あがりの浴衣姿に身も心もどうしようもなくとろけた。
(なんてきれいなんだ、俺の妻は。たまらないな……)
安寿がベッドに座ってドライヤーで髪を乾かし始めると、安寿の目の前でいきなり航志朗が着ているシャツを脱いで上半身裸になった。航志朗はボトムスのフロントボタンにも手をかけた。真っ赤になった安寿はすぐに目をつむって叫んだ。
「ちょっと、ここでは脱がないでください!」
「ん、だめか?」
「当たり前です!」
航志朗はボトムスを穿いたままバスルームに行った。安寿は後ろを向いて航志朗を見ないようにしながらドライヤーのスイッチを再びオンにした。
(ああ、びっくりした。それにしても、なんてたくましい身体なの。絵に描きたいと思ってしまうくらいに……)
安寿は熱くなった頬に手を置いた。
やがて、浴衣姿の航志朗がバスルームから出て来た。航志朗は浴衣がよく似合っていて、思わず安寿は航志朗をうっとりと眺めてしまった。
航志朗は部屋に用意してあったハーブティーのティーバッグをコーヒーカップに入れて沸騰した湯を注いだ。オーガニックのカモミールティーだ。ふたりはベッドに並んで座ってハーブティーを飲んだ。日が落ちても白く霧がかかる窓の外を見やってから、航志朗はふと気になって安寿に尋ねた。
「そういえば、安寿、『霧のなかのお姫さま』って、どんな話なんだ?」
安寿はひと口カモミールティーを飲んでから言った。
「私も先程初めて聞いたお話なんです。では、あらすじだけお話ししますね」
記憶の引き出しから慎重に物語を取り出すように、ゆっくりと安寿は話し始めた。それは、穏やかな眠りを誘うような響きをもった柔らかい声色だった。
「……むかしむかし、ある森のなかに、銀色の髪を持つ美しいお姫さまがいました。
ある日、お姫さまは、突然、森にやって来た王子さまと恋に落ちました。
王子さまは、世界じゅうを守らなければならない使命を、天上にいらっしゃる神さまから授かっていました。
王子さまは、世界じゅうを旅して回らなければならなくて、ふたりはなかなか会うことができません。
来る日も来る日も、お姫さまは泣きながら、王子さまを待っていました。
やがて、お姫さまの涙が霧になって、お姫さまをおおいました。
霧におおわれたお姫さまを、森にもどってきた王子さまは、どうしても見つけることができませんでした。
すぐそばにいるのに、ふたりは会えなくなってしまいました。
それを心配した森の動物たちが、つぎつぎにお姫さまのまわりの霧を吹き飛ばそうとしましたが、残念ながら吹き飛ばすことはできませんでした……」
そこで、安寿はひと息ついた。
「で、そのあと、どうなったんだ?」
興味を持った航志朗は安寿に話の続きを催促した。
「それから、霧のなかのお姫さまは、ええと、いろいろな試練に立ち向かって、そして、自分が持つ本当の力に気づいて、自ら霧を吹き飛ばしたんです。そうしたら、お姫さまの目の前に王子さまが現れて……、ハッピーエンドです」
やっと話し終えて肩を落とした安寿は深くため息をついた。前髪をかき上げた航志朗が率直に感想を述べた。
「なるほどな。自分でつくってしまった壁に気づいて、自力で本来の自分を取り戻すって話か。けっこう現代的な話なんだな」
航志朗はコーヒーカップを置いて安寿の肩を抱き寄せた。それがあまりにも自然な行為なので、安寿は何が起こったのかを理解するのに時間がかかった。
航志朗の匂いを意識すると、安寿の胸の鼓動がいきなり弾いた。安寿はあわてて航志朗から離れようとしたが、身体が動かない。ゆっくりと航志朗はかかんで安寿の耳元でささやいた。初めて耳にする甘く誘うような声だ。
「安寿、お姫さまと王子さまが再会してからふたりでしたことを、これから俺たちもしようか」
「えっ?」
安寿は真っ赤になった。