今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
航志朗は目を開けた。すぐに航志朗は安寿の胸に顔をうずめて、安寿に抱きしめられていることに気がついた。身体が芯から温まっている。まるで安寿と抱き合いながら陽だまりで日向ぼっこをしていたかのように。安寿はしっかりと航志朗の身体に手を回して目を閉じている。航志朗は安寿を起こさないようにゆっくりとスマートフォンに手を伸ばして時刻を確認した。午前十一時だ。
突然、航志朗はきつく胸がしめつけられた。来月からスタートする新規ビジネスのことを思い出したからだ。帰国してからこの三日間、安寿に夢中ですっかり忘れていた。
(これからしばらくの間、俺は安寿ともっと遠くに離れることになるんだ。……火と氷の国に行くから)
耐えきれずに航志朗は眠っている安寿を強く抱きしめた。安寿はすぐに目を開けて、航志朗に微笑みかけた。
「航志朗さん、よく眠っていましたね」
身体の奥がうずいた航志朗は安寿をさらに強く抱きしめて、目をきつく閉じて苦しそうに言った。
「安寿。俺は、君と、……普通の夫婦がしていることをしたい」
突然、安寿は真っ赤になって、すぐさま航志朗から離れて起き上がった。
航志朗は安寿の背中に向かっておずおずと尋ねた。
「……俺の言っている意味がわかるか?」
安寿は小さくうなずいた。胸の鼓動が激しく打っている。どうしても震えてしまう声で安寿は尋ねた。
「あの、今、ここで、……ですか?」
「いや、もうすぐチェックアウトの時間だし、まあ、延長することもできるけど」
言葉を詰まらせながら、航志朗も起き上がった。
「あ、あの、……ええと」
安寿は狼狽して言葉が出ない。安寿は腕を交差して震える自分を抱きしめてうつむいた。安寿の黒髪がその表情を覆った。その姿を見た航志朗は思わずもらしてしまった自分勝手な言葉をひどく後悔した。
気まずい時間がふたりの間に流れた。
そろそろ部屋を後にする時間だ。安寿と航志朗は無言のままで少し離れてスイートルームを出て行った。航志朗はフロントでチェックアウトの手続きをした。ふたりは送迎バスがやって来るのをロビーで待った。やはり少し離れて。
そこへ総支配人の真壁がやって来た。真壁は笑顔でふたりに言った。
「岸さま、昨日は誠にありがとうございました。満天の星空も当館自慢の日の出もお楽しみいただけましたか?」
真壁の柔らかな笑顔に少し緊張が解けた航志朗が言った。
「はい。ありがとうございます。おかげさまで霧が晴れて、両方とも妻と楽しむことができました」
「それはよかったです。ぜひ次回はお子さまもご一緒にお連れしていらっしゃってください。心よりお待ちしております」
タイミングが良すぎるのか悪すぎるのかまったく判断がつかないその言葉に、思わず安寿と航志朗は下を向いた。そのふたりの姿を見た真壁は笑みをこぼした。
ふたりはやって来た送迎バスに乗り込んだ。エントランスの前で真壁とフロントのスタッフたちが手を振って客たちを見送った。航志朗は真壁に会釈した。窓際の席で小さく手を振っていた安寿はホテルが見えなくなると、うつむきながらその手を航志朗の手にそっと重ねた。驚いて大きく目を見開いた航志朗が安寿を見ると、安寿は航志朗を見上げて頬を赤く染めて微笑んだ。
(さっきの俺の失言を許してくれたのか? というより、もしかして……)
航志朗は安寿を愛おしそうに見つめながら甘い期待を込めてその温かい手を握った。
安寿はバスの窓の外の地平線まで広がる牧場を見ながら思った。
(彼がそうしたいのなら、私は構わない。でも、とても怖い。自分がどうなってしまうのか全然わからないから)
牧場にはたくさんの牛や馬が放牧されていた。バスは低速で駐車場に向かっている。その道はトレッキングコースにもなっていて、歩いて散策を楽しむ人びとがちらほらいた。それを見た安寿は航志朗に言った。
「できれば、私、バスを降りて歩きたいです」
航志朗はうなずいて立ち上がり、バスの運転手に交渉した。バスの運転手は快くバスを停めてくれた。ありがたいことに貴重品以外の荷物は駐車場にある山小屋のフロントまで届けてもらえる。それを聞いた二組の客がふたりと一緒にバスを降りた。航志朗が安寿の手を握って、ふたりは手をつないで歩き出した。
数メートル先に数頭の牛が白いかたまりをなめているのが見えた。安寿はそれを不思議そうに眺めた。すぐに航志朗がスマートフォンで検索した。
「『鉱塩』という塩分が入った固形飼料らしい。塩分補給をしているんだな」
すると、安寿の近くに一頭の茶色の牛が頭を垂れてやって来た。安寿は手を伸ばして柵越しに牛の頭をそっとなでた。牛は気持ちよさそうに首をゆっくり振った。
「牛って、とても優しい目をしていますよね。シャガールの絵を思い出します」
その安寿の落ち着いた言葉に、航志朗は「そうだな」と安堵してうなずいた。
その時、突然、安寿と航志朗の後ろで、男の子が無邪気な甲高い声をあげた。
「パパ、ママ、あれ見て! ぼく、知ってるよ。あれ、こうびって言うんだよ!」
思わずぎょっとしたふたりはその子どもの指さす方向を見た。そこには、二頭の黒々とした毛並みの大きな馬がいて生々しく交尾をしていた。二頭の馬はけたたましい鳴き声をあげながら身体を激しく揺らしている。その周囲にいる大人たちは気まずそうに見て見ないふりをしている。
肩をすくめて航志朗は思った。
(おいおい、このタイミングでやめてくれよ……)
顔を赤らめたふたりは黙り込んでどちらからともなくその場を後にして歩き出した。それから三十分ほど歩いて駐車場に着き、ふたりは無事に車に乗り込んだ。
「安寿、どこかに寄って行くか?」とエンジンを掛けながら航志朗が訊いた。
安寿は首を振って答えた。
「いえ、まっすぐ帰りましょう」
「わかった」と言って目を細めた航志朗は安寿の頬にキスした。急に安寿は恥ずかしくなってうつむいた。
車は山を下りはじめた。どんどん遠くなっていく高原を安寿は一度振り返って見て思った。
(いつかここに航志朗さんとまた来たい。もし、そんな未来があるのなら、その時は彼と私の子どもがここに座っているのかな)
安寿は誰もいない後部座席を見つめた。
(でも、それはない。……絶対に)
安寿は泣き出したくなる気持ちを押さえつけて前を見すえた。
航志朗は目を開けた。すぐに航志朗は安寿の胸に顔をうずめて、安寿に抱きしめられていることに気がついた。身体が芯から温まっている。まるで安寿と抱き合いながら陽だまりで日向ぼっこをしていたかのように。安寿はしっかりと航志朗の身体に手を回して目を閉じている。航志朗は安寿を起こさないようにゆっくりとスマートフォンに手を伸ばして時刻を確認した。午前十一時だ。
突然、航志朗はきつく胸がしめつけられた。来月からスタートする新規ビジネスのことを思い出したからだ。帰国してからこの三日間、安寿に夢中ですっかり忘れていた。
(これからしばらくの間、俺は安寿ともっと遠くに離れることになるんだ。……火と氷の国に行くから)
耐えきれずに航志朗は眠っている安寿を強く抱きしめた。安寿はすぐに目を開けて、航志朗に微笑みかけた。
「航志朗さん、よく眠っていましたね」
身体の奥がうずいた航志朗は安寿をさらに強く抱きしめて、目をきつく閉じて苦しそうに言った。
「安寿。俺は、君と、……普通の夫婦がしていることをしたい」
突然、安寿は真っ赤になって、すぐさま航志朗から離れて起き上がった。
航志朗は安寿の背中に向かっておずおずと尋ねた。
「……俺の言っている意味がわかるか?」
安寿は小さくうなずいた。胸の鼓動が激しく打っている。どうしても震えてしまう声で安寿は尋ねた。
「あの、今、ここで、……ですか?」
「いや、もうすぐチェックアウトの時間だし、まあ、延長することもできるけど」
言葉を詰まらせながら、航志朗も起き上がった。
「あ、あの、……ええと」
安寿は狼狽して言葉が出ない。安寿は腕を交差して震える自分を抱きしめてうつむいた。安寿の黒髪がその表情を覆った。その姿を見た航志朗は思わずもらしてしまった自分勝手な言葉をひどく後悔した。
気まずい時間がふたりの間に流れた。
そろそろ部屋を後にする時間だ。安寿と航志朗は無言のままで少し離れてスイートルームを出て行った。航志朗はフロントでチェックアウトの手続きをした。ふたりは送迎バスがやって来るのをロビーで待った。やはり少し離れて。
そこへ総支配人の真壁がやって来た。真壁は笑顔でふたりに言った。
「岸さま、昨日は誠にありがとうございました。満天の星空も当館自慢の日の出もお楽しみいただけましたか?」
真壁の柔らかな笑顔に少し緊張が解けた航志朗が言った。
「はい。ありがとうございます。おかげさまで霧が晴れて、両方とも妻と楽しむことができました」
「それはよかったです。ぜひ次回はお子さまもご一緒にお連れしていらっしゃってください。心よりお待ちしております」
タイミングが良すぎるのか悪すぎるのかまったく判断がつかないその言葉に、思わず安寿と航志朗は下を向いた。そのふたりの姿を見た真壁は笑みをこぼした。
ふたりはやって来た送迎バスに乗り込んだ。エントランスの前で真壁とフロントのスタッフたちが手を振って客たちを見送った。航志朗は真壁に会釈した。窓際の席で小さく手を振っていた安寿はホテルが見えなくなると、うつむきながらその手を航志朗の手にそっと重ねた。驚いて大きく目を見開いた航志朗が安寿を見ると、安寿は航志朗を見上げて頬を赤く染めて微笑んだ。
(さっきの俺の失言を許してくれたのか? というより、もしかして……)
航志朗は安寿を愛おしそうに見つめながら甘い期待を込めてその温かい手を握った。
安寿はバスの窓の外の地平線まで広がる牧場を見ながら思った。
(彼がそうしたいのなら、私は構わない。でも、とても怖い。自分がどうなってしまうのか全然わからないから)
牧場にはたくさんの牛や馬が放牧されていた。バスは低速で駐車場に向かっている。その道はトレッキングコースにもなっていて、歩いて散策を楽しむ人びとがちらほらいた。それを見た安寿は航志朗に言った。
「できれば、私、バスを降りて歩きたいです」
航志朗はうなずいて立ち上がり、バスの運転手に交渉した。バスの運転手は快くバスを停めてくれた。ありがたいことに貴重品以外の荷物は駐車場にある山小屋のフロントまで届けてもらえる。それを聞いた二組の客がふたりと一緒にバスを降りた。航志朗が安寿の手を握って、ふたりは手をつないで歩き出した。
数メートル先に数頭の牛が白いかたまりをなめているのが見えた。安寿はそれを不思議そうに眺めた。すぐに航志朗がスマートフォンで検索した。
「『鉱塩』という塩分が入った固形飼料らしい。塩分補給をしているんだな」
すると、安寿の近くに一頭の茶色の牛が頭を垂れてやって来た。安寿は手を伸ばして柵越しに牛の頭をそっとなでた。牛は気持ちよさそうに首をゆっくり振った。
「牛って、とても優しい目をしていますよね。シャガールの絵を思い出します」
その安寿の落ち着いた言葉に、航志朗は「そうだな」と安堵してうなずいた。
その時、突然、安寿と航志朗の後ろで、男の子が無邪気な甲高い声をあげた。
「パパ、ママ、あれ見て! ぼく、知ってるよ。あれ、こうびって言うんだよ!」
思わずぎょっとしたふたりはその子どもの指さす方向を見た。そこには、二頭の黒々とした毛並みの大きな馬がいて生々しく交尾をしていた。二頭の馬はけたたましい鳴き声をあげながら身体を激しく揺らしている。その周囲にいる大人たちは気まずそうに見て見ないふりをしている。
肩をすくめて航志朗は思った。
(おいおい、このタイミングでやめてくれよ……)
顔を赤らめたふたりは黙り込んでどちらからともなくその場を後にして歩き出した。それから三十分ほど歩いて駐車場に着き、ふたりは無事に車に乗り込んだ。
「安寿、どこかに寄って行くか?」とエンジンを掛けながら航志朗が訊いた。
安寿は首を振って答えた。
「いえ、まっすぐ帰りましょう」
「わかった」と言って目を細めた航志朗は安寿の頬にキスした。急に安寿は恥ずかしくなってうつむいた。
車は山を下りはじめた。どんどん遠くなっていく高原を安寿は一度振り返って見て思った。
(いつかここに航志朗さんとまた来たい。もし、そんな未来があるのなら、その時は彼と私の子どもがここに座っているのかな)
安寿は誰もいない後部座席を見つめた。
(でも、それはない。……絶対に)
安寿は泣き出したくなる気持ちを押さえつけて前を見すえた。