今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
高速道路に入る前に、安寿と航志朗は松本にある老舗の蕎麦屋に入って昼食をとった。インターネット上でレビューの高い有名店らしく、店内は観光客でごった返していた。そのにぎやかな雰囲気とは別に、ふたりは静かに蕎麦をすすった。食後に安寿は正座して行儀よく蕎麦茶を飲んでいる。目の前の安寿の顔を盗み見た航志朗は、これから起こりうる事態に胸が高鳴っていることをどうしようもなく意識した。航志朗は我慢できずに座卓ごしに手を伸ばして安寿の手を握った。安寿は航志朗の顔を見ることができずにため息をついてうつむいた。
(彼のマンションに着いたら、私たち、どうなるんだろう……)
蕎麦屋を出発してから中央自動車道に入り一時間半が経過した。車は山梨県内を走っている。コーヒーをひと口飲んだ航志朗は隣の安寿の様子をうかがった。航志朗のジャケットを掛けた安寿は目を閉じてぐっすりと眠っている。高速道路に入った時、安寿は密室の車内で航志朗と二人きりの状態が気まずくて、寝たふりを決めこんで目を閉じた。我ながらずいぶんと子どもじみたふるまいだと思いつつも。だが、昨晩よく眠れなかった安寿は、すぐに本当に眠ってしまった。航志朗は安らかに寝息をたてる安寿の透き通った顔を見て思った。
(車のなかの眠り姫か……)
高層ビルディングに狭く区切られた西の空に陽が沈みはじめた。ライトアップされた東京タワーが左手に見えてくると、安寿は目を開けた。車外はすでに暗くなっている。ふたりは航志朗のマンションの近隣にあるスーパーマーケットで買い物をしてから帰宅した。
玄関に入ってドアの鍵をかけたとたんに、すでに自制が効かなくなっていた航志朗は安寿をいきなり抱きすくめようとした。だが、安寿はあわてて航志朗の腕をすり抜けて、スーパーマーケットの紙袋を抱えてキッチンへと走って行った。
航志朗は靴を脱ぎながら頭をかきむしった。(大人げないだろ、落ち着けよ)と航志朗は自分に言い聞かせた。
キッチンで購入してきた食品を急いで冷蔵庫の中に収めながら、安寿は胸がどきどきしすぎて吐きそうになっていた。指先が震えた安寿は片手で持った桃をもう少しで落としそうになった。安寿は心のなかで何回もつぶやいた。
(どうしよう、どうしたらいいの……)
そこへ航志朗が安寿の後ろにやって来て低い声で言った。
「安寿、何か手伝おうか?」
胸がどきっとして一瞬にして背中が硬直したが、なんとか安寿は答えた。
「だ、大丈夫です。あ、あの、航志朗さん、先にお風呂どうぞ。ゆ、夕食の準備をしておきますので」
安寿の早口で話す声は震えていた。
「……わかった。ありがとう」と言って、航志朗はバスルームに向かった。
(安寿、怖がっているのか? 大丈夫か)
航志朗は高原にいた時からずっと弾んでいた胸が塞いでくるのを感じた。安寿はずっと緊張した面持ちで身体をこわばらせて、まったく嬉しそうではない。これから初めての夜を迎えるというのに。
(本当は嫌なのに、我慢して俺に合わせているのかもしれない)と肩を落として航志朗は思った。
バスタブの湯に浸かった航志朗はあることに気づいた。
(……ゴムを用意していなかった)
もう後戻りできない航志朗は自分に都合よく考えた。
(もし、安寿が妊娠しても、俺は絶対に大丈夫だ。むしろ子どもができれば、俺にとっては好都合だ。彼女は俺から絶対に離れられなくなるからな)
だが、航志朗はすぐに考え直した。
(忘れていた。安寿はまだ高校生じゃないか。妊娠なんてしたら……)
航志朗は頭のなかが混乱してきて、湯船に頭を思いきり突っ込んだ。
安寿はダイニングテーブルの上にスーパーマーケットで買ってきた寿司を並べたプレートを置いた。椅子に座り、安寿は頬杖をついて深いため息をついた。時計を見ると午後八時を過ぎていた。
パジャマを着た航志朗がやって来ると、安寿はキッチンに行って、つくっておいたしじみ汁を温め直して漆の汁椀によそってきた。
ふたりは手を合わせてから食べ始めた。安寿はまったく食欲を感じなかった。高級な魚介がのった寿司だというのにそれを味わう余裕もなく、安寿は無理やり寿司を口に押し込んだ。
ふと航志朗と目が合った。すぐに安寿は思った。
(笑わなくちゃ。一緒にいられる最後の夜なんだから。これから何が起こっても……)
安寿は笑顔をつくって航志朗に微笑みかけた。その笑顔に航志朗は安堵感を覚えて肩の力が抜けた。
(やっぱり、安寿は俺に心を許しているんだな。それなら……)
航志朗は急にまた身体の奥がうずいたのを意識した。ひとことも言葉を交わさなかった夕食の時間はすぐに終わった。
安寿と航志朗はまた目を合わせた。激しく胸が高鳴ってきた航志朗は、その琥珀色の瞳で安寿を射るように見つめた。その視線に急にあせった安寿は叫ぶように言った。
「わ、私もお風呂に入ってきます!」
安寿はリビングルームを飛び出して行った。
航志朗は苦笑いして思った。
(安寿、あんなに緊張して……)
バスルームで追い炊きした湯に浸かりながら、安寿は自分の裸を見下ろして深いため息をついた。
(莉子ちゃんみたいに胸が大きかったらよかったのに。きっと彼は私の裸を見たら、がっかりするんだろうな……)
バスタブのふちに置いた左手の薬指を見て、安寿は思った。
(いつかこういう時が来るってわかっていたでしょ。……彼と結婚した時から)
(彼のマンションに着いたら、私たち、どうなるんだろう……)
蕎麦屋を出発してから中央自動車道に入り一時間半が経過した。車は山梨県内を走っている。コーヒーをひと口飲んだ航志朗は隣の安寿の様子をうかがった。航志朗のジャケットを掛けた安寿は目を閉じてぐっすりと眠っている。高速道路に入った時、安寿は密室の車内で航志朗と二人きりの状態が気まずくて、寝たふりを決めこんで目を閉じた。我ながらずいぶんと子どもじみたふるまいだと思いつつも。だが、昨晩よく眠れなかった安寿は、すぐに本当に眠ってしまった。航志朗は安らかに寝息をたてる安寿の透き通った顔を見て思った。
(車のなかの眠り姫か……)
高層ビルディングに狭く区切られた西の空に陽が沈みはじめた。ライトアップされた東京タワーが左手に見えてくると、安寿は目を開けた。車外はすでに暗くなっている。ふたりは航志朗のマンションの近隣にあるスーパーマーケットで買い物をしてから帰宅した。
玄関に入ってドアの鍵をかけたとたんに、すでに自制が効かなくなっていた航志朗は安寿をいきなり抱きすくめようとした。だが、安寿はあわてて航志朗の腕をすり抜けて、スーパーマーケットの紙袋を抱えてキッチンへと走って行った。
航志朗は靴を脱ぎながら頭をかきむしった。(大人げないだろ、落ち着けよ)と航志朗は自分に言い聞かせた。
キッチンで購入してきた食品を急いで冷蔵庫の中に収めながら、安寿は胸がどきどきしすぎて吐きそうになっていた。指先が震えた安寿は片手で持った桃をもう少しで落としそうになった。安寿は心のなかで何回もつぶやいた。
(どうしよう、どうしたらいいの……)
そこへ航志朗が安寿の後ろにやって来て低い声で言った。
「安寿、何か手伝おうか?」
胸がどきっとして一瞬にして背中が硬直したが、なんとか安寿は答えた。
「だ、大丈夫です。あ、あの、航志朗さん、先にお風呂どうぞ。ゆ、夕食の準備をしておきますので」
安寿の早口で話す声は震えていた。
「……わかった。ありがとう」と言って、航志朗はバスルームに向かった。
(安寿、怖がっているのか? 大丈夫か)
航志朗は高原にいた時からずっと弾んでいた胸が塞いでくるのを感じた。安寿はずっと緊張した面持ちで身体をこわばらせて、まったく嬉しそうではない。これから初めての夜を迎えるというのに。
(本当は嫌なのに、我慢して俺に合わせているのかもしれない)と肩を落として航志朗は思った。
バスタブの湯に浸かった航志朗はあることに気づいた。
(……ゴムを用意していなかった)
もう後戻りできない航志朗は自分に都合よく考えた。
(もし、安寿が妊娠しても、俺は絶対に大丈夫だ。むしろ子どもができれば、俺にとっては好都合だ。彼女は俺から絶対に離れられなくなるからな)
だが、航志朗はすぐに考え直した。
(忘れていた。安寿はまだ高校生じゃないか。妊娠なんてしたら……)
航志朗は頭のなかが混乱してきて、湯船に頭を思いきり突っ込んだ。
安寿はダイニングテーブルの上にスーパーマーケットで買ってきた寿司を並べたプレートを置いた。椅子に座り、安寿は頬杖をついて深いため息をついた。時計を見ると午後八時を過ぎていた。
パジャマを着た航志朗がやって来ると、安寿はキッチンに行って、つくっておいたしじみ汁を温め直して漆の汁椀によそってきた。
ふたりは手を合わせてから食べ始めた。安寿はまったく食欲を感じなかった。高級な魚介がのった寿司だというのにそれを味わう余裕もなく、安寿は無理やり寿司を口に押し込んだ。
ふと航志朗と目が合った。すぐに安寿は思った。
(笑わなくちゃ。一緒にいられる最後の夜なんだから。これから何が起こっても……)
安寿は笑顔をつくって航志朗に微笑みかけた。その笑顔に航志朗は安堵感を覚えて肩の力が抜けた。
(やっぱり、安寿は俺に心を許しているんだな。それなら……)
航志朗は急にまた身体の奥がうずいたのを意識した。ひとことも言葉を交わさなかった夕食の時間はすぐに終わった。
安寿と航志朗はまた目を合わせた。激しく胸が高鳴ってきた航志朗は、その琥珀色の瞳で安寿を射るように見つめた。その視線に急にあせった安寿は叫ぶように言った。
「わ、私もお風呂に入ってきます!」
安寿はリビングルームを飛び出して行った。
航志朗は苦笑いして思った。
(安寿、あんなに緊張して……)
バスルームで追い炊きした湯に浸かりながら、安寿は自分の裸を見下ろして深いため息をついた。
(莉子ちゃんみたいに胸が大きかったらよかったのに。きっと彼は私の裸を見たら、がっかりするんだろうな……)
バスタブのふちに置いた左手の薬指を見て、安寿は思った。
(いつかこういう時が来るってわかっていたでしょ。……彼と結婚した時から)