今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と航志朗は遅い朝食をとった。時刻はすでに午前十一時を過ぎていた。目を伏せた安寿は言いづらそうに航志朗に尋ねた。
「あの、航志朗さん。何時に空港に向かうんですか?」
「ああ、午後六時発のフライトだから一時間前に羽田に着くとして、ここからタクシーで四十分くらいだから、四時すぎだな」
そう軽くは言ったものの、航志朗は胸が塞いでしまった。安寿は何も言わずにきつく目を閉じた。ふたりは同時に同じことを思った。
(あと五時間しか一緒にいられない……)
黄色みがかったエメラルドグリーンのブドウを食べながら、安寿は航志朗の黒革の手帳に目を落とした。安寿はふと思いついて航志朗に言い出した。
「航志朗さん、その手帳にちょっと絵を描いてもいいですか」
航志朗は少し驚いて言った。
「えっ? ああ、いいよ。後半のページは無地になっているから、そこに描くといい」
航志朗は安寿に手帳と万年筆を手渡した。その万年筆は婚姻届にサインしたペンだった。航志朗の目の前でいきなり安寿は描き出した。まったくためらわずにさらさらと。口元に笑みを浮かべた航志朗は、安寿を静かに見守った。安寿は小さな牛の絵をたくさん描いていった。一頭一頭、同じものはない個性的な特徴のあるユーモラスな牛が並んでいった。それでいて優しい目をしている牛だった。
「安寿、ありがとう。新しい仕事のお守りになるな」と言って、航志朗は心から愉しそうに笑った。
急に安寿が気になって尋ねた。
「『新しい仕事』、……ですか?」
「ああ、来月からレイキャビクに行くんだ」
「レイキャビクって、どこですか?」
「アイスランドだ」
首をかしげた安寿は頭のなかに地球儀を思い浮かべて考えた。
(アイスランドって、どのあたりにあるんだっけ。北極圏の方かな?)
安寿は厚い氷の上に暮らす真っ白なホッキョクグマやアザラシの姿までも思い描いた。
「期間はどのくらいなんですか?」
「十か月だ」
「じゅっ、十か月も!」
急に安寿は目をしばたかせてうつむき、両手を重ねて強く握りしめた。
あせった表情で航志朗が言った。
「そんな顔するなよ、安寿。寂しいのか? 飛行機に乗れば、いつでも帰って来られる。日本への直行便がないし、シンガポールよりはずっと遠くなるけど……」
すぐに安寿は思った。
(昨日の夜にそれを聞いていたら、私はきっと……)
胸の内で安寿は考えた。
(あえて彼は言わなかったんだ。私の心が誤るから)
安寿は航志朗の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。あの時、怖いと思った航志朗の瞳は、今は穏やかで安らかな気持ちを持たせてくれる。
(航志朗さんはまっとうな良心を持った本当にフェアなひとなんだ。私は彼のことを心から信じられる)
「ん? どうした、安寿」
急に黙り込んでしまった安寿の顔を航志朗は心配そうにのぞき込んだ。
「航志朗さん、私、あなたのそういうところ、尊敬します」
「……尊敬?」
いきなり安寿に尊敬された航志朗は、わけがわからずに首を傾けた。
そんな航志朗のとぼけた顔が可笑しくて、安寿は肩をすくめて微笑んだ。安寿の可愛らしい笑顔につられて航志朗も笑みをこぼした。
スマートフォンの時計を見ると安寿はすっと立ち上がって言った。
「昼食にピザを焼きますね。咲さんに聞いたんです。航志朗さんがピザ好きだって。私、咲さんにレシピを教えてもらいました。さっき頓挫しそうになりましたが」
安寿はキッチンに立ってエプロンの腰ひもをきゅっと結んだ。安寿の言葉に航志朗は有頂天になってしまった。すぐさま確信めいた想いがこみ上げてきた。
(そうだったのか! 彼女の心はもうとっくに俺のものになっていたんだな……)
航志朗は表情をゆるませながら、すぐに安寿の後ろに立った。熱心に安寿はフライパンでトマトソースを煮つめている。いきなり航志朗は後ろから安寿を抱きしめて弾んだ声を出して言った。
「安寿、俺も手伝うよ!」
驚いた安寿はレードルを握った手がすべってトマトソースをフライパンの外に飛ばしてしまった。赤くなって安寿はうつむきながら言った。
「あ、ありがとうございます。でもあとは具材をのせてオーブンで焼くだけですから、航志朗さんは座っていてください」
「わかった。じゃあ、ピザ生地ができるまでこうしている」
航志朗は安寿をぎゅうぎゅう抱きしめて、顔を安寿の後ろ髪にこすりつけた。安寿はあきれてため息をついた。
(全然わかってないでしょ……)
なんとかピザ生地をオーブンレンジに上下二段で収めることができた。焼きあがりまで二十分だ。オーブンレンジのタイマーを設定し終わった瞬間に、航志朗は安寿の顎を強引につかんで唇を重ねてきた。
「あ、あの、ちょっと……」
顔を赤らめた安寿が小さい声で抗議した。
「焼きあがるまで、こうしている……」
ふたりはキッチンの床に座り込んで抱き合った。安寿は航志朗に一方的にキスされながら時計を見た。
(あと三時間半……)
安寿は急に胸がしめつけられた。両目の奥にじんわりと熱いものがたまってきた。でも、それを外に出すわけにはいかない。航志朗の温もりと匂いを全身で感じながら、安寿は航志朗にしがみつくしかなかった。航志朗にきつく抱きしめられながら、安寿は心のなかで叫んでいた。
(私はあなたが好き。本当に、本当に、好き……)
突然、重ねた唇を離して、目を細めながら航志朗は浮いた声でささやいた。
「こんなにも君とキスしていたら、せっかくのピザが焼きあがる前に、お腹がいっぱいになりそうだな」
目を閉じて息を荒くしながら安寿が言った。
「ご心配なく。私が全部食べますから」
航志朗はまた唇を重ねながら、肩をゆすって笑った。
やがて、ピザの焼ける香ばしい香りが鼻をくすぐった。急に食欲がわいてきた安寿と航志朗は唇を離してオーブンを見た。そして、互いの顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
オーブンレンジの電子音が鳴った。ふたりはキッチンに立ったままで、焼きたてのピザをプレートにものせずにそのままちぎって、息を吹きかけて冷ましながらかじった。二時間近くかかってつくったピザは、十分でなくなった。
トマトソースがついた安寿の指を航志朗は口に入れてなめた。安寿は全身がぞくっとした。航志朗はそのまま安寿の手首をつかんで抱き寄せてキスした。顔を赤らめるのをすっかり忘れてしまった安寿は、航志朗の身体に心のおもむくままに抱きついた。ふたりはもつれあいながらソファに移動した。そして、また抱き合ってキスし合った。
「あの、航志朗さん。何時に空港に向かうんですか?」
「ああ、午後六時発のフライトだから一時間前に羽田に着くとして、ここからタクシーで四十分くらいだから、四時すぎだな」
そう軽くは言ったものの、航志朗は胸が塞いでしまった。安寿は何も言わずにきつく目を閉じた。ふたりは同時に同じことを思った。
(あと五時間しか一緒にいられない……)
黄色みがかったエメラルドグリーンのブドウを食べながら、安寿は航志朗の黒革の手帳に目を落とした。安寿はふと思いついて航志朗に言い出した。
「航志朗さん、その手帳にちょっと絵を描いてもいいですか」
航志朗は少し驚いて言った。
「えっ? ああ、いいよ。後半のページは無地になっているから、そこに描くといい」
航志朗は安寿に手帳と万年筆を手渡した。その万年筆は婚姻届にサインしたペンだった。航志朗の目の前でいきなり安寿は描き出した。まったくためらわずにさらさらと。口元に笑みを浮かべた航志朗は、安寿を静かに見守った。安寿は小さな牛の絵をたくさん描いていった。一頭一頭、同じものはない個性的な特徴のあるユーモラスな牛が並んでいった。それでいて優しい目をしている牛だった。
「安寿、ありがとう。新しい仕事のお守りになるな」と言って、航志朗は心から愉しそうに笑った。
急に安寿が気になって尋ねた。
「『新しい仕事』、……ですか?」
「ああ、来月からレイキャビクに行くんだ」
「レイキャビクって、どこですか?」
「アイスランドだ」
首をかしげた安寿は頭のなかに地球儀を思い浮かべて考えた。
(アイスランドって、どのあたりにあるんだっけ。北極圏の方かな?)
安寿は厚い氷の上に暮らす真っ白なホッキョクグマやアザラシの姿までも思い描いた。
「期間はどのくらいなんですか?」
「十か月だ」
「じゅっ、十か月も!」
急に安寿は目をしばたかせてうつむき、両手を重ねて強く握りしめた。
あせった表情で航志朗が言った。
「そんな顔するなよ、安寿。寂しいのか? 飛行機に乗れば、いつでも帰って来られる。日本への直行便がないし、シンガポールよりはずっと遠くなるけど……」
すぐに安寿は思った。
(昨日の夜にそれを聞いていたら、私はきっと……)
胸の内で安寿は考えた。
(あえて彼は言わなかったんだ。私の心が誤るから)
安寿は航志朗の琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。あの時、怖いと思った航志朗の瞳は、今は穏やかで安らかな気持ちを持たせてくれる。
(航志朗さんはまっとうな良心を持った本当にフェアなひとなんだ。私は彼のことを心から信じられる)
「ん? どうした、安寿」
急に黙り込んでしまった安寿の顔を航志朗は心配そうにのぞき込んだ。
「航志朗さん、私、あなたのそういうところ、尊敬します」
「……尊敬?」
いきなり安寿に尊敬された航志朗は、わけがわからずに首を傾けた。
そんな航志朗のとぼけた顔が可笑しくて、安寿は肩をすくめて微笑んだ。安寿の可愛らしい笑顔につられて航志朗も笑みをこぼした。
スマートフォンの時計を見ると安寿はすっと立ち上がって言った。
「昼食にピザを焼きますね。咲さんに聞いたんです。航志朗さんがピザ好きだって。私、咲さんにレシピを教えてもらいました。さっき頓挫しそうになりましたが」
安寿はキッチンに立ってエプロンの腰ひもをきゅっと結んだ。安寿の言葉に航志朗は有頂天になってしまった。すぐさま確信めいた想いがこみ上げてきた。
(そうだったのか! 彼女の心はもうとっくに俺のものになっていたんだな……)
航志朗は表情をゆるませながら、すぐに安寿の後ろに立った。熱心に安寿はフライパンでトマトソースを煮つめている。いきなり航志朗は後ろから安寿を抱きしめて弾んだ声を出して言った。
「安寿、俺も手伝うよ!」
驚いた安寿はレードルを握った手がすべってトマトソースをフライパンの外に飛ばしてしまった。赤くなって安寿はうつむきながら言った。
「あ、ありがとうございます。でもあとは具材をのせてオーブンで焼くだけですから、航志朗さんは座っていてください」
「わかった。じゃあ、ピザ生地ができるまでこうしている」
航志朗は安寿をぎゅうぎゅう抱きしめて、顔を安寿の後ろ髪にこすりつけた。安寿はあきれてため息をついた。
(全然わかってないでしょ……)
なんとかピザ生地をオーブンレンジに上下二段で収めることができた。焼きあがりまで二十分だ。オーブンレンジのタイマーを設定し終わった瞬間に、航志朗は安寿の顎を強引につかんで唇を重ねてきた。
「あ、あの、ちょっと……」
顔を赤らめた安寿が小さい声で抗議した。
「焼きあがるまで、こうしている……」
ふたりはキッチンの床に座り込んで抱き合った。安寿は航志朗に一方的にキスされながら時計を見た。
(あと三時間半……)
安寿は急に胸がしめつけられた。両目の奥にじんわりと熱いものがたまってきた。でも、それを外に出すわけにはいかない。航志朗の温もりと匂いを全身で感じながら、安寿は航志朗にしがみつくしかなかった。航志朗にきつく抱きしめられながら、安寿は心のなかで叫んでいた。
(私はあなたが好き。本当に、本当に、好き……)
突然、重ねた唇を離して、目を細めながら航志朗は浮いた声でささやいた。
「こんなにも君とキスしていたら、せっかくのピザが焼きあがる前に、お腹がいっぱいになりそうだな」
目を閉じて息を荒くしながら安寿が言った。
「ご心配なく。私が全部食べますから」
航志朗はまた唇を重ねながら、肩をゆすって笑った。
やがて、ピザの焼ける香ばしい香りが鼻をくすぐった。急に食欲がわいてきた安寿と航志朗は唇を離してオーブンを見た。そして、互いの顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
オーブンレンジの電子音が鳴った。ふたりはキッチンに立ったままで、焼きたてのピザをプレートにものせずにそのままちぎって、息を吹きかけて冷ましながらかじった。二時間近くかかってつくったピザは、十分でなくなった。
トマトソースがついた安寿の指を航志朗は口に入れてなめた。安寿は全身がぞくっとした。航志朗はそのまま安寿の手首をつかんで抱き寄せてキスした。顔を赤らめるのをすっかり忘れてしまった安寿は、航志朗の身体に心のおもむくままに抱きついた。ふたりはもつれあいながらソファに移動した。そして、また抱き合ってキスし合った。