今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
しばらくしてから、ふたりはソファの上で横になって抱き合ったまま話をした。安寿は航志朗にずっと前から尋ねてみたかったことを思いきって口に出した。
「あの、航志朗さんは、どんなお仕事をされていらっしゃるんですか?」
航志朗は愉快そうに笑って言った。
「やれやれ。君は自分の夫の仕事を知らなかったのか。というより、俺が話していなかったな。ひとことで言えば、俺は、ベンチャーキャピタリストだ。シンガポール人のビジネスパートナーと投資会社を経営している。俺はその会社のCOO、つまり副社長だ。今後大きく成長しそうな企業や事業に投資して、それから経営コンサルティングも提供して、最終的な利益を得る。俺は主にアート事業のコンサルをやっている。あとは個人名義でも投資をしていたり……、ああ、そうだ。俺は、君専属のギャラリーを持っていないギャラリストだったな」
安寿はあぜんとしてその話を聞いた。正直なところ、まったく理解ができなかったが、大変な仕事をしているということだけはわかった。安寿はまた航志朗に尋ねた。
「あの、航志朗さんは、イギリスの大学で何を勉強されていたのですか?」
航志朗はなんのてらいもなく言った。
「経営学だ。修士号まで取った。それから西洋美術史の修士号も持っていて、来年の夏には、イギリスの大学院でアート・マネジメントの博士号を取得する予定なんだ。だから今回のアイスランド行きは、シンガポールにいるよりもイギリスに近くなるから、俺にとって都合がいいんだ。実は、この春にアイスランドの地熱発電所に大口の投資をしたんだけど、そこで親しくなったアイスランド人の発電所のオーナーから、別件で新規事業として美術館を創設するからアイスランドに来て手伝ってほしいって言われたんだ。俺は行くことにした。掲示された報酬額は申し分ないし、博士論文のおあつらえ向きの文材にもなるからな」
突然、安寿は航志朗から遠く離れた世界にひとりで取り残されたような孤独な気持ちになった。安寿の心のなかに、胸をどうしようもなくしめつけるあの想いがまた浮かんできた。
(本当に、彼と私は住む世界が全然違う……)
安寿は心の底から思った。
(私は今のままではだめだ。もっと、もっと、がんばらなくちゃ。彼のいる世界に少しでも近づけるように。でも、そのために、いったい私はどうしたらいいんだろう)
うつむいて安寿は考え込んだ。
「ん? 安寿、どうした」
また急に黙り込んだ安寿を心配して、航志朗が安寿の顔をのぞき込んだ。
安寿は顔を上げてまっすぐに航志朗を見つめて言った。
「もうひとつだけ、訊いてもいいですか。航志朗さんは、どうしてそんなに忙しく働いているんですか?」
航志朗に失礼かもしれないと安寿は思ったが、どうしても訊かずにはいられなかった。
哀愁を帯びた琥珀色の瞳で航志朗は静かに答えた。
「どうしてかって、答えはひとつしかない。あの森を買い戻すためだ」
「あの岸家の裏の森を?」
「そう。祖父が亡くなった時に、事業の借金返済や相続税の支払いのために、あの森を売却したんだ。もう少しであの屋敷も売るところだった。岸家は祖父の代まではそれなりに裕福だったけれど、今はそうじゃない。……がっかりした?」
航志朗は安寿の顔をわざといたずらっぽくのぞき込んだ。安寿はむっとした表情で言った。
「そんなつもりで結婚したんじゃありません」
航志朗は笑って軽い口調で言った。
「じゃあ、どんなつもりだったんだ?」
安寿は言葉に詰まった。
(わかっているくせに……)
午後二時半を過ぎた。あと一時間半だ。航志朗がふと思い出したように言った。
「そうだ。君へのプレゼントがあるんだ。ちょっと待ってて」
航志朗はリビングルームを出て行った。すぐに航志朗は戻って来て、安寿の背後に立って言った。
「安寿、目を閉じて」
安寿は素直に目を閉じた。航志朗は何かを安寿の首にかけた。
「もういいよ、目を開けて」
安寿が目を開けると、胸元でネイビーブルーのペンダントトップが虹色に輝いた。ペンダントには、プラチナでできた羽根のような二つの小さなチャームが重なり合ってあしらってある。
「きれい……」
安寿はペンダントトップをそっと手に取って深いため息をついた。
「イタリアの土産だ。君のためにジュエリーデザイナーのマユさんに作ってもらったんだ」
「とても嬉しいです。ありがとうございます。このペンダント、とても不思議な感じがします。大昔の海を固めたみたいな色ですね」
航志朗は目を細めて言った。
「さすがだな、君は。ある意味、正解だよ。そのガラスはローマングラスと言って、二千年前のローマ時代のガラスなんだそうだ」
「に、二千年前ですか!」
安寿は目を丸くした。安寿は手のひらにのせたペンダントが急にずしりと重くなった気がした。
(これって、ものすごく高価なんじゃないの。さっきお金がないって言っていたのに……)
航志朗は目を落として、その琥珀色の瞳を陰らせて暗く沈んだ色に染めて言った。
「君が俺と離れている間、そのペンダントも君を守ってくれる。結婚指輪と一緒に。でも、少しでも何かあったら、遠慮なく俺に連絡しろよ、すぐに帰って来るからな。いいな、安寿」
思わず安寿は涙が出そうになった。そんな優しい言葉が出てくるのは、別れの時間が近いからだ。目をきつく閉じてうつむいた安寿を航志朗はローマングラスのペンダントごと抱きしめた。安寿も航志朗の背中に手を回して全身で抱きついた。ふたりはずっと無言で抱き合っていた。
やがて、辛そうに顔をしかめて航志朗が言った。
「……そろそろ出かける準備をする」
航志朗は安寿を離して立ち上がり、背中を見せてリビングルームを出て行った。安寿はキッチンに行って両目を擦ってから、昼食の後片づけをし始めた。
スーツケースとブリーフケースを玄関に置いて、航志朗はリビングルームに戻って来た。そして、安寿の目の前で航志朗はスマートフォンを操作してタクシーの予約をした。
ソファに座って見守っていた安寿は航志朗に尋ねた。
「航志朗さん、私、空港にお見送りに行ってもいいですか?」
航志朗は内心驚いたが、安寿に微笑んでうなずいた。苦しそうに喉の奥から声を絞り出して哀願するように航志朗が言った。
「まだ十五分ある。おいで、安寿」
安寿の隣に座った航志朗は両手を広げて、安寿を腕の中に誘った。すぐに安寿はその腕の中におさまった。別れの前のひとときがあっというまに過ぎ去っていくのを惜しみながら、ふたりはきつく抱き合った。
「あの、航志朗さんは、どんなお仕事をされていらっしゃるんですか?」
航志朗は愉快そうに笑って言った。
「やれやれ。君は自分の夫の仕事を知らなかったのか。というより、俺が話していなかったな。ひとことで言えば、俺は、ベンチャーキャピタリストだ。シンガポール人のビジネスパートナーと投資会社を経営している。俺はその会社のCOO、つまり副社長だ。今後大きく成長しそうな企業や事業に投資して、それから経営コンサルティングも提供して、最終的な利益を得る。俺は主にアート事業のコンサルをやっている。あとは個人名義でも投資をしていたり……、ああ、そうだ。俺は、君専属のギャラリーを持っていないギャラリストだったな」
安寿はあぜんとしてその話を聞いた。正直なところ、まったく理解ができなかったが、大変な仕事をしているということだけはわかった。安寿はまた航志朗に尋ねた。
「あの、航志朗さんは、イギリスの大学で何を勉強されていたのですか?」
航志朗はなんのてらいもなく言った。
「経営学だ。修士号まで取った。それから西洋美術史の修士号も持っていて、来年の夏には、イギリスの大学院でアート・マネジメントの博士号を取得する予定なんだ。だから今回のアイスランド行きは、シンガポールにいるよりもイギリスに近くなるから、俺にとって都合がいいんだ。実は、この春にアイスランドの地熱発電所に大口の投資をしたんだけど、そこで親しくなったアイスランド人の発電所のオーナーから、別件で新規事業として美術館を創設するからアイスランドに来て手伝ってほしいって言われたんだ。俺は行くことにした。掲示された報酬額は申し分ないし、博士論文のおあつらえ向きの文材にもなるからな」
突然、安寿は航志朗から遠く離れた世界にひとりで取り残されたような孤独な気持ちになった。安寿の心のなかに、胸をどうしようもなくしめつけるあの想いがまた浮かんできた。
(本当に、彼と私は住む世界が全然違う……)
安寿は心の底から思った。
(私は今のままではだめだ。もっと、もっと、がんばらなくちゃ。彼のいる世界に少しでも近づけるように。でも、そのために、いったい私はどうしたらいいんだろう)
うつむいて安寿は考え込んだ。
「ん? 安寿、どうした」
また急に黙り込んだ安寿を心配して、航志朗が安寿の顔をのぞき込んだ。
安寿は顔を上げてまっすぐに航志朗を見つめて言った。
「もうひとつだけ、訊いてもいいですか。航志朗さんは、どうしてそんなに忙しく働いているんですか?」
航志朗に失礼かもしれないと安寿は思ったが、どうしても訊かずにはいられなかった。
哀愁を帯びた琥珀色の瞳で航志朗は静かに答えた。
「どうしてかって、答えはひとつしかない。あの森を買い戻すためだ」
「あの岸家の裏の森を?」
「そう。祖父が亡くなった時に、事業の借金返済や相続税の支払いのために、あの森を売却したんだ。もう少しであの屋敷も売るところだった。岸家は祖父の代まではそれなりに裕福だったけれど、今はそうじゃない。……がっかりした?」
航志朗は安寿の顔をわざといたずらっぽくのぞき込んだ。安寿はむっとした表情で言った。
「そんなつもりで結婚したんじゃありません」
航志朗は笑って軽い口調で言った。
「じゃあ、どんなつもりだったんだ?」
安寿は言葉に詰まった。
(わかっているくせに……)
午後二時半を過ぎた。あと一時間半だ。航志朗がふと思い出したように言った。
「そうだ。君へのプレゼントがあるんだ。ちょっと待ってて」
航志朗はリビングルームを出て行った。すぐに航志朗は戻って来て、安寿の背後に立って言った。
「安寿、目を閉じて」
安寿は素直に目を閉じた。航志朗は何かを安寿の首にかけた。
「もういいよ、目を開けて」
安寿が目を開けると、胸元でネイビーブルーのペンダントトップが虹色に輝いた。ペンダントには、プラチナでできた羽根のような二つの小さなチャームが重なり合ってあしらってある。
「きれい……」
安寿はペンダントトップをそっと手に取って深いため息をついた。
「イタリアの土産だ。君のためにジュエリーデザイナーのマユさんに作ってもらったんだ」
「とても嬉しいです。ありがとうございます。このペンダント、とても不思議な感じがします。大昔の海を固めたみたいな色ですね」
航志朗は目を細めて言った。
「さすがだな、君は。ある意味、正解だよ。そのガラスはローマングラスと言って、二千年前のローマ時代のガラスなんだそうだ」
「に、二千年前ですか!」
安寿は目を丸くした。安寿は手のひらにのせたペンダントが急にずしりと重くなった気がした。
(これって、ものすごく高価なんじゃないの。さっきお金がないって言っていたのに……)
航志朗は目を落として、その琥珀色の瞳を陰らせて暗く沈んだ色に染めて言った。
「君が俺と離れている間、そのペンダントも君を守ってくれる。結婚指輪と一緒に。でも、少しでも何かあったら、遠慮なく俺に連絡しろよ、すぐに帰って来るからな。いいな、安寿」
思わず安寿は涙が出そうになった。そんな優しい言葉が出てくるのは、別れの時間が近いからだ。目をきつく閉じてうつむいた安寿を航志朗はローマングラスのペンダントごと抱きしめた。安寿も航志朗の背中に手を回して全身で抱きついた。ふたりはずっと無言で抱き合っていた。
やがて、辛そうに顔をしかめて航志朗が言った。
「……そろそろ出かける準備をする」
航志朗は安寿を離して立ち上がり、背中を見せてリビングルームを出て行った。安寿はキッチンに行って両目を擦ってから、昼食の後片づけをし始めた。
スーツケースとブリーフケースを玄関に置いて、航志朗はリビングルームに戻って来た。そして、安寿の目の前で航志朗はスマートフォンを操作してタクシーの予約をした。
ソファに座って見守っていた安寿は航志朗に尋ねた。
「航志朗さん、私、空港にお見送りに行ってもいいですか?」
航志朗は内心驚いたが、安寿に微笑んでうなずいた。苦しそうに喉の奥から声を絞り出して哀願するように航志朗が言った。
「まだ十五分ある。おいで、安寿」
安寿の隣に座った航志朗は両手を広げて、安寿を腕の中に誘った。すぐに安寿はその腕の中におさまった。別れの前のひとときがあっというまに過ぎ去っていくのを惜しみながら、ふたりはきつく抱き合った。