今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
午後四時にタクシーが到着した。安寿と航志朗はうつむいてマンションを後にした。ふたりはタクシーの後部座席に並んで座った。航志朗は安寿の右手をずっと握っていた。安寿は航志朗のの左手の薬指につけられた結婚指輪が自分の右手に当たるのを意識した。ふたりは何も会話せずに、互いの握った手の感触だけに集中した。
予定より早くタクシーは羽田空港第2ターミナルに到着した。ふたりは三階の国際線出発ロビーに行き、搭乗手続きをし始めた。航志朗は手慣れた様子で自動チェックイン機を操作して、航空会社のカウンターでスーツケースを預けた。安寿は後ろからその様子を見守った。
航志朗は振り返って安寿に言った。
「あとは保安検査と出国手続きをして、搭乗時間の三十分前までに搭乗ゲートに行くだけだ。簡単だろ? まあ、俺はいつもぎりぎりでかなり迷惑な旅客だけど」
思わず安寿は苦笑いした。身軽になった航志朗は安寿の肩に手を回して言った。
「まだ少しだけ時間がある。展望デッキに一緒に行こう」
ふたりはエスカレーターに乗って五階の展望デッキに行った。外に出る自動ドアが開くと、いきなり轟音が聞こえてきた。ガソリンのような重い匂いも漂ってくる。航志朗は人けの少ないすみの方に安寿を連れて行った。
夏休み中だからか、日が傾きかけている時間帯でも、子どもを連れた家族や若いカップル、本格的な一眼レフカメラを三脚に構えた航空ファンまで大勢の人びとがいた。
次から次へと飛行機がどこかからやって来て着陸し、また別の飛行機がどこかへ飛び立って行く。飛行機の離発着を安寿は生まれて初めて自分の目で見た。航志朗は安寿の背負ったマウンテンリュックサックを下ろして、人目をはばからずに後ろから安寿を抱きしめた。その腕の中で安寿は目を見張った。その様子を面白そうに見つめた航志朗はかがんで安寿の耳元に低い声でささやいた。
「どうだ、安寿。飛行機に乗ってみたくなっただろ。もちろん、俺と一緒に」
安寿は何も答えずに、目の前の飛行機を見つめた。また一機、空の彼方へ飛び立って行った。身体に回された航志朗の腕をきつく握って安寿は思った。
(彼はもうすぐ遠くへ行ってしまうんだ。今、こんなに近くにいるのに……)
ふいに航志朗は安寿の頬を引き寄せて唇を重ねた。また一機、飛行機が空の彼方へ飛び立って行った。
航志朗が何かを振り切るように言った。
「そろそろ、……行くか」
安寿は懸命に笑顔をつくってうなずいた。
出発ロビーに向かう途中、安寿はたくさんのショップが立ち並ぶエリアで見覚えがある店を見つけた。安寿はその店を指さして航志朗に伝えた。
「航志朗さん、あのお店、私の高校の友だちの原田莉子ちゃんのおうちのお店なんですよ」
「そうか。君の友だちは『菓匠はらだ』のお嬢さんなんだ」
安寿は嬉しそうにうなずいた。ふと航志朗は思いついて安寿に軽い口調で言った。
「ちょっと手土産を買っていくよ。アンがあの店の羊羹が好きなんだ」
「えっ? アンさん……」
航志朗の口から出たあの名前に胸がずきんと音を立てて、安寿は身を硬くした。
航志朗は安寿の様子にまったく気がつかない。追い打ちをかけるように航志朗が言った。
「ああ、君に話していなかったな。アン・リーは、俺のビジネスパートナーだ。俺たちの会社の社長をしている。イギリスの高校時代からの長い付き合いなんだ」
航志朗は安寿の前で『菓匠はらだ』の羊羹と最中の詰め合わせを買い求めた。
安寿は急激に身体じゅうが冷えきっていくのを感じた。そして、安寿は身体の奥底からぞっとしながら思った。
(私は今まで何をしていたんだろう。彼女がいるひとと、あんなに抱き合って、あんなにキスして……)
じわじわと涙が目の奥にたまってきた。でも、航志朗の前では絶対に流せない。自責の念にさいなまれ両足の付け根が震えてくる。安寿は背負ったマウンテンリュックサックの肩ベルトを強く握りしめた。
予定より早くタクシーは羽田空港第2ターミナルに到着した。ふたりは三階の国際線出発ロビーに行き、搭乗手続きをし始めた。航志朗は手慣れた様子で自動チェックイン機を操作して、航空会社のカウンターでスーツケースを預けた。安寿は後ろからその様子を見守った。
航志朗は振り返って安寿に言った。
「あとは保安検査と出国手続きをして、搭乗時間の三十分前までに搭乗ゲートに行くだけだ。簡単だろ? まあ、俺はいつもぎりぎりでかなり迷惑な旅客だけど」
思わず安寿は苦笑いした。身軽になった航志朗は安寿の肩に手を回して言った。
「まだ少しだけ時間がある。展望デッキに一緒に行こう」
ふたりはエスカレーターに乗って五階の展望デッキに行った。外に出る自動ドアが開くと、いきなり轟音が聞こえてきた。ガソリンのような重い匂いも漂ってくる。航志朗は人けの少ないすみの方に安寿を連れて行った。
夏休み中だからか、日が傾きかけている時間帯でも、子どもを連れた家族や若いカップル、本格的な一眼レフカメラを三脚に構えた航空ファンまで大勢の人びとがいた。
次から次へと飛行機がどこかからやって来て着陸し、また別の飛行機がどこかへ飛び立って行く。飛行機の離発着を安寿は生まれて初めて自分の目で見た。航志朗は安寿の背負ったマウンテンリュックサックを下ろして、人目をはばからずに後ろから安寿を抱きしめた。その腕の中で安寿は目を見張った。その様子を面白そうに見つめた航志朗はかがんで安寿の耳元に低い声でささやいた。
「どうだ、安寿。飛行機に乗ってみたくなっただろ。もちろん、俺と一緒に」
安寿は何も答えずに、目の前の飛行機を見つめた。また一機、空の彼方へ飛び立って行った。身体に回された航志朗の腕をきつく握って安寿は思った。
(彼はもうすぐ遠くへ行ってしまうんだ。今、こんなに近くにいるのに……)
ふいに航志朗は安寿の頬を引き寄せて唇を重ねた。また一機、飛行機が空の彼方へ飛び立って行った。
航志朗が何かを振り切るように言った。
「そろそろ、……行くか」
安寿は懸命に笑顔をつくってうなずいた。
出発ロビーに向かう途中、安寿はたくさんのショップが立ち並ぶエリアで見覚えがある店を見つけた。安寿はその店を指さして航志朗に伝えた。
「航志朗さん、あのお店、私の高校の友だちの原田莉子ちゃんのおうちのお店なんですよ」
「そうか。君の友だちは『菓匠はらだ』のお嬢さんなんだ」
安寿は嬉しそうにうなずいた。ふと航志朗は思いついて安寿に軽い口調で言った。
「ちょっと手土産を買っていくよ。アンがあの店の羊羹が好きなんだ」
「えっ? アンさん……」
航志朗の口から出たあの名前に胸がずきんと音を立てて、安寿は身を硬くした。
航志朗は安寿の様子にまったく気がつかない。追い打ちをかけるように航志朗が言った。
「ああ、君に話していなかったな。アン・リーは、俺のビジネスパートナーだ。俺たちの会社の社長をしている。イギリスの高校時代からの長い付き合いなんだ」
航志朗は安寿の前で『菓匠はらだ』の羊羹と最中の詰め合わせを買い求めた。
安寿は急激に身体じゅうが冷えきっていくのを感じた。そして、安寿は身体の奥底からぞっとしながら思った。
(私は今まで何をしていたんだろう。彼女がいるひとと、あんなに抱き合って、あんなにキスして……)
じわじわと涙が目の奥にたまってきた。でも、航志朗の前では絶対に流せない。自責の念にさいなまれ両足の付け根が震えてくる。安寿は背負ったマウンテンリュックサックの肩ベルトを強く握りしめた。