今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
機嫌よく菓子折りの入った紙袋を下げて戻って来た航志朗は、当然のように安寿の手を握った。その瞬間、目を見開いて航志朗は驚いた。いつも温かい安寿の手が冷たくなっている。安寿の顔をのぞき込むと、その顔は青ざめて固まっていた。
「……安寿?」
安寿の瞳を航志朗は見つめたが、安寿は視線を合わせてこなかった。握った手も握り返してこない。
(俺が行ってしまうのが、そんなにもつらいのか……)
航志朗は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。しかし、もう出発時間の四十分前になってしまっている。急いで航志朗は安寿に言った。
「そろそろ行かないとな。安寿、ひとつだけ言っておく。あの森には絶対にひとりで行くなよ、いいな?」
「……はい。わかりました」
安寿はうつむいたまま冷淡な調子で答えた。
それから、航志朗は安寿の耳元に口を寄せて甘くささやいた。
「それから、もうひとつ。もう二度と他の男にキスさせるなよ、いいな?」
安寿はうつむいたままで小さくうなずいたが、心のなかでは白々しく思った。
(自分は他の女のひととするのに……)
別れ際に航志朗は安寿をきつく抱きしめた。航志朗は後ろの方で離れて自分たちを見守っている男に気づいて、その男と目を合わせて会釈をした。そして、安寿の頬にキスして、「安寿、いってくる」とだけ言って、保安検査場に向かって行った。
突然、安寿は顔を上げて大声で叫んだ。
「航志朗さん、お気をつけて!」
振り返った航志朗は寂しげな笑顔で安寿に手を振った。
安寿の目の前から航志朗の姿が消えた。
一人残された安寿はすぐにトイレを探した。視界をにじませて必死で周囲を見回す。ずっと我慢していた涙があふれてこぼれ落ちてきたからだ。
その時、安寿の背後で聞き覚えのある優しい声がした。
「安寿さま。航志朗坊っちゃんからご連絡をいただいて、お迎えに参りました」
それは、伊藤だった。
「伊藤さん……」
頬を涙で濡らした安寿は伊藤の姿を見て泣きじゃくりはじめた。伊藤の目の前で安寿は肩を上下に揺すり両手で顔を覆って泣いた。
伊藤は安寿が泣くのを初めて見た。顔をしかめた伊藤は安寿の涙で濡れた手に白いハンカチを握らせた。そして、その固くこわばった背中に温かい手を置いて、穏やかだが強い口調で言った。
「安寿さま、お屋敷に帰りましょう」
安寿はハンカチを目に押し当ててうなずいた。安寿と伊藤は歩き出した。先を歩く伊藤は眉間にしわを寄せて目を伏せながら考え始めた。
(安寿さまと航志朗坊っちゃんは、もうあんなに愛し合っていらっしゃるのか。私がおふたりにできることはなんだろうか。……安寿さまへのつぐないのために)
その時、出国審査を済ませた航志朗は搭乗ゲートに向かって全速力で走っていた。航志朗は搭乗ゲート締め切り時刻ぎりぎりでなんとかたどり着いた。待ち構えていたグランドスタッフが、シンガポール行きのフライトの最後の乗客である航志朗をほっと安堵したかのような笑顔で見送った。
航志朗はビジネスクラスの座席に座ってひと息ついた。すぐに乗降扉がキャビンアテンダントによって閉じられて、シートベルトの着用サインが点灯した。航志朗がシートベルトを締めると、隣の席の男があいさつをしてきた。顔見知りの日本の大手企業のシンガポール駐在員だ。その男はいやらしい表情を浮かべながら航志朗に話しかけた。
「おやおや、可愛い彼女とやっとさよならして来たんですか?」
苛立ちを感じながら、航志朗は素っ気なく答えた。
「彼女は私の妻ですが」
「これは失礼。ご結婚されていらっしゃったんですね」
男は航志朗の左手の結婚指輪に目を落とした。
男はにやにや笑いながら言った。
「でもまあ、無事に奥さまと離れられたんですから、私のように早く結婚指輪を外されるといいですよ。結婚指輪をしていたら、キャビンアテンダントさえも近寄って来ないですからね」
その言葉を無視して、航志朗は小窓の外を見た。
(もう彼女は伊藤さんの車に乗って空港を発ったんだろうな。安寿、今、君は泣いているんじゃないか……)
やがて、航志朗が乗った飛行機は滑走路に出て、一路シンガポールに向けて離陸して行った。
その日の夕陽がだんだん沈んでいく。安寿は車の窓の外の朱色に染まった夕陽を眺めた。銀色に輝く機体が遠目に微かに見えた。だが、すぐにそれは小さくなって視界から消えた。伊藤が運転する車の後部座席に座った安寿は、湿ったハンカチを握りしめながら思った。
(私はここで絵を描く。……今の私には、それしかできないから)
「……安寿?」
安寿の瞳を航志朗は見つめたが、安寿は視線を合わせてこなかった。握った手も握り返してこない。
(俺が行ってしまうのが、そんなにもつらいのか……)
航志朗は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。しかし、もう出発時間の四十分前になってしまっている。急いで航志朗は安寿に言った。
「そろそろ行かないとな。安寿、ひとつだけ言っておく。あの森には絶対にひとりで行くなよ、いいな?」
「……はい。わかりました」
安寿はうつむいたまま冷淡な調子で答えた。
それから、航志朗は安寿の耳元に口を寄せて甘くささやいた。
「それから、もうひとつ。もう二度と他の男にキスさせるなよ、いいな?」
安寿はうつむいたままで小さくうなずいたが、心のなかでは白々しく思った。
(自分は他の女のひととするのに……)
別れ際に航志朗は安寿をきつく抱きしめた。航志朗は後ろの方で離れて自分たちを見守っている男に気づいて、その男と目を合わせて会釈をした。そして、安寿の頬にキスして、「安寿、いってくる」とだけ言って、保安検査場に向かって行った。
突然、安寿は顔を上げて大声で叫んだ。
「航志朗さん、お気をつけて!」
振り返った航志朗は寂しげな笑顔で安寿に手を振った。
安寿の目の前から航志朗の姿が消えた。
一人残された安寿はすぐにトイレを探した。視界をにじませて必死で周囲を見回す。ずっと我慢していた涙があふれてこぼれ落ちてきたからだ。
その時、安寿の背後で聞き覚えのある優しい声がした。
「安寿さま。航志朗坊っちゃんからご連絡をいただいて、お迎えに参りました」
それは、伊藤だった。
「伊藤さん……」
頬を涙で濡らした安寿は伊藤の姿を見て泣きじゃくりはじめた。伊藤の目の前で安寿は肩を上下に揺すり両手で顔を覆って泣いた。
伊藤は安寿が泣くのを初めて見た。顔をしかめた伊藤は安寿の涙で濡れた手に白いハンカチを握らせた。そして、その固くこわばった背中に温かい手を置いて、穏やかだが強い口調で言った。
「安寿さま、お屋敷に帰りましょう」
安寿はハンカチを目に押し当ててうなずいた。安寿と伊藤は歩き出した。先を歩く伊藤は眉間にしわを寄せて目を伏せながら考え始めた。
(安寿さまと航志朗坊っちゃんは、もうあんなに愛し合っていらっしゃるのか。私がおふたりにできることはなんだろうか。……安寿さまへのつぐないのために)
その時、出国審査を済ませた航志朗は搭乗ゲートに向かって全速力で走っていた。航志朗は搭乗ゲート締め切り時刻ぎりぎりでなんとかたどり着いた。待ち構えていたグランドスタッフが、シンガポール行きのフライトの最後の乗客である航志朗をほっと安堵したかのような笑顔で見送った。
航志朗はビジネスクラスの座席に座ってひと息ついた。すぐに乗降扉がキャビンアテンダントによって閉じられて、シートベルトの着用サインが点灯した。航志朗がシートベルトを締めると、隣の席の男があいさつをしてきた。顔見知りの日本の大手企業のシンガポール駐在員だ。その男はいやらしい表情を浮かべながら航志朗に話しかけた。
「おやおや、可愛い彼女とやっとさよならして来たんですか?」
苛立ちを感じながら、航志朗は素っ気なく答えた。
「彼女は私の妻ですが」
「これは失礼。ご結婚されていらっしゃったんですね」
男は航志朗の左手の結婚指輪に目を落とした。
男はにやにや笑いながら言った。
「でもまあ、無事に奥さまと離れられたんですから、私のように早く結婚指輪を外されるといいですよ。結婚指輪をしていたら、キャビンアテンダントさえも近寄って来ないですからね」
その言葉を無視して、航志朗は小窓の外を見た。
(もう彼女は伊藤さんの車に乗って空港を発ったんだろうな。安寿、今、君は泣いているんじゃないか……)
やがて、航志朗が乗った飛行機は滑走路に出て、一路シンガポールに向けて離陸して行った。
その日の夕陽がだんだん沈んでいく。安寿は車の窓の外の朱色に染まった夕陽を眺めた。銀色に輝く機体が遠目に微かに見えた。だが、すぐにそれは小さくなって視界から消えた。伊藤が運転する車の後部座席に座った安寿は、湿ったハンカチを握りしめながら思った。
(私はここで絵を描く。……今の私には、それしかできないから)