今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第12章 高校生活最後の日々──あなたを待っている

第1節

 九月に入って二学期が始まった。安寿が航志朗と別れてから二週間が経った。その間、安寿はもうこの結婚指輪を左手の薬指から外さないと固く心に決心した。期限付きの契約結婚をしたという事実に正面から身も心も向き合おうと安寿は思ったのだ。航志朗と離婚するその日まで。

 安寿と莉子、蒼と大翔の四人は、互いの関係がこの夏休みの間にずいぶんと変わってしまったことに気がついた。八月の終わりに安寿は莉子に誘われて、また莉子の家に泊まりに行っていた。その夜、安寿は莉子から驚くべきことを聞かされた。

 その日も安寿は莉子の祖母と母が用意してくれた温かい夕食を莉子の家族と一緒にとった。莉子の家は六人家族だ。大皿にのった料理がすぐに空になっていく。あわてて莉子が安寿に言った。

 「安寿ちゃん、遠慮しないで箸をのばしてね。兄貴たちがどんどん食べちゃうから!」

 その妹の言葉に、二人の兄たちが取り皿に料理を盛って競うように安寿に差し出した。莉子の父もだ。思わず安寿は肩をすくめた。

 莉子が生理中だというので一人で風呂に入ってから莉子の部屋に行き、莉子が敷いてくれた布団に横になった。もちろん二組の布団はぴったりと寄せられている。

 その時、突然、莉子が安寿に謝ってきた。

 「安寿ちゃん、ごめんね! 私、安寿ちゃんにうそついた」

 いきなりで安寿は驚いたが、心当たりがあった。

 「あの時、ね?」

 「そう。急な予定が入って行けなくなったって、うそだったの。大翔くんも蒼くんにうそついた」

 「どうしてそんなことをしたの?」と穏やかに安寿は莉子に尋ねた。

 「大翔くんが言ったの。安寿ちゃんと蒼くんを二人きりにさせてあげようって」

 安寿はまた莉子に訊いた。

 「どうして?」

 「蒼くんが、……ずっと安寿ちゃんのことを好きだから」

 うつむいて安寿が言った。

 「うん。蒼くんにそう言われた。……あの日に」

 頬を赤らめて莉子はごく控えめに尋ねた。

 「安寿ちゃんも、蒼くんのこと、好きなの?」

 安寿は顔を上げて、莉子をまっすぐに見すえて言った。

 「うん、好きだよ。……友だちとして」

 それから安寿は蒼に話したように、初めて莉子に自分の家庭の事情を話した。航志朗と結婚していることもだ。莉子は話の途中から涙ぐんだ。安寿が自分に寄せてくれる大きな信頼を感じたのだ。

 莉子は安寿の手を握って言った。

 「安寿ちゃん、私に話してくれてありがとう」

 安寿もほっとしたように肩を落として言った。

 「莉子ちゃんが私の友だちでいてくれて、本当に嬉しい。ありがとう、莉子ちゃん」

 ふたりは互いの瞳を見つめ合って、心から微笑んだ。

 莉子は安寿の左手の薬指につけられた結婚指輪をうらやましそうに見てから尋ねた。

 「岸さんは、安寿ちゃんの本当の気持ちを知ってるの?」

 「わからない。彼はシンガポールに彼女がいるから、私の本当の気持ちを伝えても迷惑なだけだと思う」

 そう言って安寿はつらそうに目を下に落とした。

 その時、口には出せなかったが、心のなかで莉子は思った。
 
 (そういう男の人には見えなかったけどな。安寿ちゃんの誤解じゃないの……)

 そして、莉子はいきなり顔を真っ赤にして、安寿に小声で告白した。

 「安寿ちゃん、あのね。実は、私、大翔くんと付き合いはじめたの!」

 「ええっ、本当なの!」

 驚いた安寿は思わず大声を出してしまって、あわてて口を両手で押さえた。安寿はすぐに嬉しくなって莉子に微笑みかけた。

 「あの後、大翔くんと二人きりになって、彼の家に誘われて行ったんだ。一緒に住んでいる大学生のお姉さんは京都の実家に帰っていて留守だった。それで、お昼ごはんに大翔くんがホットプレートでお好み焼きをつくってくれたの。焼きそばの入った広島風の」

 「わあ、おいしそうだね!」

 「うん。すごくおいしかったよ。それから、私たち……」

 安寿は楽しそうにうなずいた。

 「……しちゃったの」

 「えっ?」

 安寿はキスでもしたのかなと思ったが、それは違った。

 「おととい遅れていた生理がやっときて、ものすごく安心したんだ」

 莉子は目を潤ませて下を向いた。

 「そうだったんだ……」

 ふたりはよく日に干されたふかふかの布団の上でしばらく沈黙した。

 莉子は言いづらそうに安寿に言った。

 「安寿ちゃんは結婚しているんだから、岸さんと……、ええと、なんて言ったらいいの」

 莉子はまた赤い顔をしてうつむいた。
 
 莉子の言おうとしていることが思い当たった安寿は正直に言った。

 「私たちはね、そういうことしてないの」

 「本当なの! なんか安寿ちゃんいいなあ」

 「ええっ、どうして?」

 「だって、安寿ちゃん、岸さんにすごく大切にされている感じがするから」

 「そうかなあ……」

 「そうだよ! 私は兄貴が二人もいるから知ってるけど、男の人の性欲ってものすごいんだから! 一緒にいて我慢できるってすごいことだと思うよ。大翔くんだって、いきなり……」

 突然、莉子は耳まで真っ赤になった。

 「そうなんだ……」

 また安寿と莉子は沈黙した。

 「でも、莉子ちゃん。本当は、前から大翔くんのことが好きだったんじゃないの?」

 「うん。そうかもしれない。あの日までぜーんぜん意識していなかったんだけどね」

 「だって好きじゃなかったら、大翔くんの家に行かなかったでしょ?」

 「うん。……そうだね」

 そう言うと恥ずかしそうに莉子は微笑んだ。

 安寿もにっこりと微笑んだ。心から安寿は嬉しかった。莉子と大翔には絶対に幸せになってほしいと思った。ふたりとも安寿にとって、とても大切で大好きな友だちだからだ。

 莉子は目をパジャマの袖でぬぐいながら安寿を見つめて言った。

 「安寿ちゃん、私のお布団で一緒に寝ようよ」

 「うん、いいよ」

 部屋の電気を消して、ふたりは莉子の布団の中で横になって向かい合い、一度ぎゅっと抱き合って手をつないだ。莉子の身体は思わずうっとりしてしまうくらいとても柔らかくて、初春に咲く愛らしい花のような甘い匂いがした。当たり前だが、叔母の恵や航志朗の身体とは全然違う。

 安寿は小声で莉子に訊いた。

 「莉子ちゃん。男の人と、……するって、どんな感じなの?」

 莉子は少し考えてから、声をひそめて言った。

 「やっぱりはじめは痛くて、すごくびっくりしちゃった。心の準備をしないでいきなりそういうことになっちゃったし。でもね、だんだん、なんていうか、すごく安心してくるの。ずっとこのまま、彼とこうしていたいって思うくらいに」

 「……そうなんだ」

 安寿は航志朗の身体の感触を思い出していた。得体のしれない感覚を身体の奥からわきあがらせる航志朗の匂いも。

 突然、安寿と莉子は赤くなった。暗くて顔がよく見えないが気配でわかる。心の底から恥ずかしくなったふたりは、肩を震わせてくすくす笑い出した。莉子がふと思いついたように言った。

 「そういえば、安寿ちゃんと恋バナをするのって初めてだよね」

 「そういえば、そうだね」

 「私たちって、いきなりものすごく濃い恋バナをしているような気がするんだけど……」

 「ほんとだね」

 一つの布団の中で安寿と莉子はまた互いを抱きしめた。

 思わず莉子が大声で叫んだ。

 「もうっ、私、安寿ちゃん大好き!」

 「私だって、莉子ちゃん大好きだよ!」

 安寿と莉子はそのまま互いの温もりを感じ合いながら目を閉じた。

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