今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
岸のアトリエは屋敷の離れにあった。いったん母屋の北側の裏口から出て、母屋と離れをつなぐ通路を通り、敷地の後ろに広がる森に隣接した小さな和風の家屋に設えられている。
安寿は岸の後ろをついて行った。裏口から出ると、雨に濡れた鬱蒼とけぶる森の樹々の匂いが安寿を包んだ。辺りは薄暗く霧がかかり、水滴がしたたって流れ落ちる音が聞こえた。まるで別世界に踏み出すようだ。なぜか安寿はこの場所を知っていると思うが、急に恐れを感じて立ち止まった。
(今なら私は守られた元の世界に引き返すことができる。……私は、本当にこの先に行きたいの?)
安寿は岸の大きな背中を見つめた。それは安寿に言い知れない安心感をもたらした。
その時、岸について行くと安寿は心に決めた。
岸は振り返り申しわけなさそうに言った。
「どうぞお入りください。安寿さんがいらっしゃると知っていれば、きちんと掃除をしておいたのですが」
岸が引き戸を開け、ふたりは中に入った。西洋風とも和風ともとれる不思議となじんだ空間が広がっていた。屋敷の北側にある家屋のためか、廊下は昼間でも電灯が必要なほど暗かった。安寿はその暗闇の奥に何かが隠れているような気がして怖くなり、思わず岸に身を寄せた。岸はそんな安寿を見て柔らかく微笑んだ。
「安寿さん、すいません。暗くて怖くなってしまいますよね。この離れは元は茶室でした。私の父は茶道をたしなんでいましたので。この部屋が私のアトリエです。元は和室だった部屋を洋室に改築しました」
思いのほか広いアトリエに入ると、慣れ親しんだ油絵具を溶くオイルの匂いがした。森の樹々を眺めるウッドテラスに通じる窓のそばにある大きなイーゼルに、描きかけの風景画が立てかけられていた。油絵具と画筆が置かれたチェスト、デスクと数脚の椅子、カウチソファが置かれている。そして、たくさんのキャンバスが造りつけのシェルフに収められていた。アトリエの調度品はダークブラウンにまとめられていて、どれも古い家具のようだ。あるいはアンティークなのかもしれない。そして、細かい幾何学模様が織られた色あせた赤い大きなラグが無垢材の床に敷かれている。安寿は簡素ではあるがそのすべてが美しく調和しているアトリエを心地よく感じた。
(なんて素敵なアトリエなの。私もここで絵を描いてみたい)と安寿は思った。
「安寿さん、どうぞこちらにお座りください」
岸が真紅のベルベットが張ってある肘掛け椅子を窓のそばに外向きに置いた。
「はい。岸先生、ありがとうございます」
安寿は肘掛け椅子に座り、窓の外の森を眺めた。
「今日は、ずっと雨降りの一日ですね」
カウチソファに腰掛けた岸が窓の外を眺めながら静かに言った。
「でも、森の樹々は生き生きとしています」
ふと安寿は気になって岸に尋ねた。
「あの森は、中に入ることができるのですか?」
「ええ、入れますよ。小道があって少し歩くと大きな池があります。元は、私の一族が代々所有していた森でした。先代が亡くなった時に手放しましたが」
「そうですか……」
微かに岸の琥珀色の瞳が陰ったことに安寿は気づいた。
ふたりは黙って窓の外を見ていた。静かな時間が流れる。岸は安寿の横顔をそっと見つめた。そして、岸は安寿の目を見て言った。
「突然の話でご気分を害されたのでなければよいのですが、……私は、安寿さんをモデルにして絵を描いてみたいと思います。ですが、安寿さんがお嫌でしたらお断りいただいても、私はいっこうに構いません」
安寿は驚いてしまった。てっきり華鶴の独断だと思っていたのだ。
(岸先生ご自身が、私を描いてみたいと思われるなんて……)
急に安寿は胸の鼓動が早くなり顔が熱くなった。岸と目を合わせられず、下を向いてなんとか言った。
「岸先生、少し考える時間をいただけますか? 叔母にも相談したいと思いますし」
「わかりました。突然、勝手なことを申しあげて、あなたに大変申しわけないです」
その言葉に安寿はうつむきながら首を振った。
安寿は呆然としたままで岸家を後にした。
雨はまだ降り続いている。帰りの車の中で、思い切って安寿は伊藤に尋ねた。
「あの、伊藤さん。私は岸先生のモデルになるなんて、まったく自信がありません。私のようなものに務まるのでしょうか?」
運転席に座った伊藤は安寿の質問には答えずに、しばらく沈黙してから重い口を開いた。
「宗嗣さまは若かりし頃、人物画をお描きになられていましたが、ある日、描けなくなってしまわれたのです」
安寿はそこに何か深いわけがあることを感じたが、私にはそれを詮索する資格はないと思った。
「僭越ながら、私は、安寿さまがご自身でモデルになるかどうかお決めになればよろしいかと思います。よくお考えになって、お決まりになりましたら、いつでも私にご連絡くださいませ」
安寿は岸の後ろをついて行った。裏口から出ると、雨に濡れた鬱蒼とけぶる森の樹々の匂いが安寿を包んだ。辺りは薄暗く霧がかかり、水滴がしたたって流れ落ちる音が聞こえた。まるで別世界に踏み出すようだ。なぜか安寿はこの場所を知っていると思うが、急に恐れを感じて立ち止まった。
(今なら私は守られた元の世界に引き返すことができる。……私は、本当にこの先に行きたいの?)
安寿は岸の大きな背中を見つめた。それは安寿に言い知れない安心感をもたらした。
その時、岸について行くと安寿は心に決めた。
岸は振り返り申しわけなさそうに言った。
「どうぞお入りください。安寿さんがいらっしゃると知っていれば、きちんと掃除をしておいたのですが」
岸が引き戸を開け、ふたりは中に入った。西洋風とも和風ともとれる不思議となじんだ空間が広がっていた。屋敷の北側にある家屋のためか、廊下は昼間でも電灯が必要なほど暗かった。安寿はその暗闇の奥に何かが隠れているような気がして怖くなり、思わず岸に身を寄せた。岸はそんな安寿を見て柔らかく微笑んだ。
「安寿さん、すいません。暗くて怖くなってしまいますよね。この離れは元は茶室でした。私の父は茶道をたしなんでいましたので。この部屋が私のアトリエです。元は和室だった部屋を洋室に改築しました」
思いのほか広いアトリエに入ると、慣れ親しんだ油絵具を溶くオイルの匂いがした。森の樹々を眺めるウッドテラスに通じる窓のそばにある大きなイーゼルに、描きかけの風景画が立てかけられていた。油絵具と画筆が置かれたチェスト、デスクと数脚の椅子、カウチソファが置かれている。そして、たくさんのキャンバスが造りつけのシェルフに収められていた。アトリエの調度品はダークブラウンにまとめられていて、どれも古い家具のようだ。あるいはアンティークなのかもしれない。そして、細かい幾何学模様が織られた色あせた赤い大きなラグが無垢材の床に敷かれている。安寿は簡素ではあるがそのすべてが美しく調和しているアトリエを心地よく感じた。
(なんて素敵なアトリエなの。私もここで絵を描いてみたい)と安寿は思った。
「安寿さん、どうぞこちらにお座りください」
岸が真紅のベルベットが張ってある肘掛け椅子を窓のそばに外向きに置いた。
「はい。岸先生、ありがとうございます」
安寿は肘掛け椅子に座り、窓の外の森を眺めた。
「今日は、ずっと雨降りの一日ですね」
カウチソファに腰掛けた岸が窓の外を眺めながら静かに言った。
「でも、森の樹々は生き生きとしています」
ふと安寿は気になって岸に尋ねた。
「あの森は、中に入ることができるのですか?」
「ええ、入れますよ。小道があって少し歩くと大きな池があります。元は、私の一族が代々所有していた森でした。先代が亡くなった時に手放しましたが」
「そうですか……」
微かに岸の琥珀色の瞳が陰ったことに安寿は気づいた。
ふたりは黙って窓の外を見ていた。静かな時間が流れる。岸は安寿の横顔をそっと見つめた。そして、岸は安寿の目を見て言った。
「突然の話でご気分を害されたのでなければよいのですが、……私は、安寿さんをモデルにして絵を描いてみたいと思います。ですが、安寿さんがお嫌でしたらお断りいただいても、私はいっこうに構いません」
安寿は驚いてしまった。てっきり華鶴の独断だと思っていたのだ。
(岸先生ご自身が、私を描いてみたいと思われるなんて……)
急に安寿は胸の鼓動が早くなり顔が熱くなった。岸と目を合わせられず、下を向いてなんとか言った。
「岸先生、少し考える時間をいただけますか? 叔母にも相談したいと思いますし」
「わかりました。突然、勝手なことを申しあげて、あなたに大変申しわけないです」
その言葉に安寿はうつむきながら首を振った。
安寿は呆然としたままで岸家を後にした。
雨はまだ降り続いている。帰りの車の中で、思い切って安寿は伊藤に尋ねた。
「あの、伊藤さん。私は岸先生のモデルになるなんて、まったく自信がありません。私のようなものに務まるのでしょうか?」
運転席に座った伊藤は安寿の質問には答えずに、しばらく沈黙してから重い口を開いた。
「宗嗣さまは若かりし頃、人物画をお描きになられていましたが、ある日、描けなくなってしまわれたのです」
安寿はそこに何か深いわけがあることを感じたが、私にはそれを詮索する資格はないと思った。
「僭越ながら、私は、安寿さまがご自身でモデルになるかどうかお決めになればよろしいかと思います。よくお考えになって、お決まりになりましたら、いつでも私にご連絡くださいませ」