今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 目の前の地面の上には光の加減でブラックにもダークブラウンにも見える溶岩が延々と広がり、それは柔らかなモスグリーンの苔に覆われている。この瞬間にも増殖し続けているような苔はじわじわとその生命力を足元から主張してくる。遠目には真っ白な水蒸気の柱が何本も立っていて、風向きによっては硫黄の匂いが漂ってくる。この荒涼としたむき出しの地球の息吹きが感じられる土地の光景は稀有な魅力にあふれていて、内なる心にひそむ情熱をかき立てる。

 その溶岩の上に立った航志朗は顔をしかめながら、黒いダウンジャケットの下に着こんだタートルネックセーターの首元を伸ばして口と鼻を覆った。航志朗がアイスランドにやって来てから、一か月半が経過した。地熱発電所の商談で一度この地を訪れてはいたが、予想以上に寒い。まだ十月だというのに気温は十度に満たない。この数年間、常夏の国に住んでいた航志朗は厚手の防寒着を持っていなかった。航志朗は到着後すぐに現地のショップでダウンジャケットやセーターを数枚買い求めた。

 「コウシロウ!」
 
 ぶっきらぼうだが可愛らしい声が航志朗の名前を呼んだ。

 航志朗は振り返って言った。

 「クルル、そろそろ帰ろう。俺、この匂いがもう耐えられなくなってきた」

 航志朗は気持ち悪そうに胸をさすった。

 「ふん。君が行きたいと言っていたから、休日にも関わらずに付き合ってやったのに。弱いな、君は。この程度の匂いでノックアウトか」

 腰まで伸びた透き通るようなプラチナブロンドの髪をなびかせたヘーゼルアイの少女が、ブルージーンズの腰に手を当てて見下したように目を細めて航志朗を見た。航志朗は停めてあった車の運転席にさっさと乗り込んでミネラルウォーターを口にした。少女は一度大きく伸びをしてから、車の助手席に座った。

 「クルル、『コウシロウ』って呼びづらいだろ? 前にも言ったけど『コーシ』でいいよ」

 クルルと呼ばれた少女はマグボトルを開けて湯気の立つ中身をひと口飲んでから、思いきり顔をしかめて言った。

 「僕は、ものの名前を省略するのが嫌いなんだ。名前には一字一句ちゃんとした意味があるだろ。それがどんな言語であってもだ。省略することは、その言語の魂に対して失礼だ」

 やれやれと航志朗は肩をすくめた。

 (彼女、なんとなく安寿に似ているところがあるんだよな。背丈だってほとんど同じくらいなんじゃないのか)

 「腹がへってきたな。車を出せ、コウシロウ。レイキャビクに戻るぞ」

 「了解、ボス!」

 おどけて応答した航志朗をクルルは仏頂面でじろっとにらんだ。

 シンガポールからヘルシンキ経由でアイスランド・ケプラヴィーク空港に到着した航志朗を出迎えたのが、地熱発電所のオーナーのエルヴァル・グヴズルンソンとその末娘のクルルだった。エルヴァルは五十代前半で、中世ヨーロッパの修道士のようなストイックな風体をしている。エルヴァルには母親が違う娘が四人いる。この春にエルヴァルの長女が出産して初孫が生まれた。エルヴァルは航志朗のために自邸近くのアパートメントを借りてくれた。アイスランドは物価も税金も高い。現在パートナーがいないエルヴァルはベテランのハウスキーパーを雇っていて、彼女がつくる夕食を航志朗はエルヴァルとその娘たちと一緒にとっている。
 
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