今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
九月初旬、エルヴァルのオフィスで新しい美術館を創設するメンバーのキックオフミーティングがあった。出席した航志朗はその場で美術館の館長に就任する人物を紹介された。それはまぎれもなく、クルル・エルヴァルドッティルだった。クルルは十六歳だ。今までクルルは一日も学校に行っていない。ずっと数人の家庭教師によるホームスタディで学んできた。クルルは聡明で、すでに高校卒業レベル以上の学力を有している。
アイスランド滞在中にこの土地の自然をこの目で見て回ろうと思った航志朗は、週末にエルヴァルから大型のオフロードカーを借りた。エルヴァルはクルルをガイド兼ナビゲーターとして薦めたが、航志朗は正直なところ戸惑った。
(年頃の女の子と車の中で二人きりはまずいんじゃないのか。安寿が聞いたら、嫌がるだろうな)
週末の早朝、航志朗の隣に乗り込んできたクルルは、航志朗の左手の薬指の結婚指輪を一瞥してから言った。
「コウシロウ、変な気を起こすなよ。僕は君のような男にはまったく興味がないからな」
航志朗はほっとため息をついた。
「それは絶対にない。俺にはトーキョーに心から愛する妻がいるからな」
「ふうん。多少は興味を覚えるな。君の妻はどんなひとなんだ?」
クルルは長い髪をかき上げて低い声で言った。
「どんなって、もうどうしようもないくらいに愛しているひとだ」
「じゃあ、どうして、今、一緒にいないんだ? ここに彼女を連れて来ればよかったのに」
ふいに航志朗は胸を突かれてうつむいて言った。
「本当に君の言うとおりだよ……」
あきれたようにクルルは目をむいて両肩を上げてから、また航志朗に尋ねた。
「君の妻の名前はなんて言うんだ?」
「アンジュだ」
「アンジュか。へえ、いい名前だな」
クルルは初めて航志朗に微笑んだ。それは、朝露がしたたる大きな葉の上に座った妖精のような美しい笑顔だった。
ウイークデーの朝、航志朗はエルヴァルのオフィスに午前九時に出社する。オフィスは航志朗が滞在しているアパートメントから歩いて約十分の場所に位置する。レイキャビクはこじんまりとしたシンプルな街だ。カラフルな街並みの向こうにはむき出しの岸壁が垣間見える。この国はモダンアートに造詣が深く、街じゅう至るところにアート作品を見ることができる。
広々としたワンフロアのオフィスの一角に新設する美術館の仮オフィスが設けられている。航志朗は自分でコーヒーを淹れて窓際の椅子に座った。そして、航志朗はパソコンを立ち上げて、新設する美術館の基本計画書を読んだ。それはクルルが自身で作成したものだ。自然豊かなアイスランドは百パーセント以上、自然エネルギーで電力を自給している。その約二十五パーセントが地熱発電による電力だ。当然、美術館の光熱設備はすべて地熱発電でまかなわれる。
ひと通り計画書を読み終えた航志朗は、クルルのアートへの静かな情熱に感心した。そして、意外に思った。
(彼女は、自分の美術館でアートコミュニケーションの場を作りたいのか)
クルルはいつも一人でいる。学校に行っていないということもあるのだろうが、同年代の友だちがいないようだ。三人の姉たちとも距離感があるように感じる。父親のエルヴァルだけがクルルの唯一の話し相手のようだ。
クルルの母親はシンガーで北欧中のライブハウスを巡っていると聞いた。エルヴァルとクルルの母親はすでに別れているが、もともと結婚はしていなかった。それはこの国では珍しいことではない。実はここに来てはじめてわかったことだったが、新設する美術館のスタッフは設備工事関係者以外はまだ航志朗だけだった。その事実に、航志朗は当初「金持ちのお嬢さんの道楽のアドバイザー」として雇われたのかと思った。しかし、すでにエルヴァルとクルルが収集したアイスランド人アーティストによる現代アート作品には航志朗を瞠目させるものがあった。
午前十時ごろにクルルは眠そうな目をこすりながらオフィスにやって来る。そして、ランチタイムを挟んで午後三時まで、ふたりは一緒に美術館の事業展開についての詳細を練る。エルヴァルの地熱発電所の近くに立地する美術館の施設はすでに建設が始まっていた。
航志朗は午後三時にエルヴァルのオフィスを出てアパートメントに戻る。そして、シンガポールのアンと連絡を取り、航志朗の本来の仕事を始める。アンは航志朗のアイスランド行きを快く送り出してくれた。アンは何よりも航志朗の博士号取得を心待ちにしているし、北欧におけるビジネス展開でのエルヴァルの強力なコネクションに期待しているのだ。ただアンが唯一心配しているのが、航志朗が東京に残してきた新妻のことだ。もともと女性に対して配慮が足りない航志朗が安寿に寂しい想いをさせているのではないかと、航志朗とは長い付き合いのアンは危惧した。
(だって、アンジュはまだ高校生なんだろう。寂しさのあまり、隣にいる男子生徒に走ってしまったりしないのかよ……)
午後八時を過ぎると航志朗はエルヴァルの自宅に顔を出して夕食をごちそうになる。レイキャビクの外れに住む長女のアンナが生後六か月の男の子を連れてきている時は、なぜか航志朗がその男の子を風呂に入れる役割になった。その男の子はアンナに似た黒髪とダークブラウンの瞳を持った東洋人のような顔立ちで、航志朗によくなついたからだ。はじめは恐る恐るだったが、エルヴァルの三人の娘たちに「パパになる練習だ」とおだてられて、今では腕まくりをしてその役目を果たしている。それだけではなく、航志朗はベビーを抱っこしてそのまま寝かしつけることにも慣れて、アンナにとても重宝がられている。アパートメントに戻ると、航志朗は毎晩ゆっくりと風呂に浸かる。アイスランドは各住宅に温泉がひかれているのだ。身体が芯から温まってきて航志朗は思った。
(もし、安寿がここにいたら、毎晩、間違いなく長風呂だろうな。ベッドで待っている俺をそっちのけにして……)
毎晩眠りにつく前に航志朗はスマートフォンの中にある安寿の写真をながめる。この二か月間、何度も安寿に電話しようと思ったが、どうしてもできなかった。安寿の声とその息遣いを聞いてしまったら、本当に何もかも投げ出して飛行機に乗ってしまいそうだからだ。東京はアイスランドより九時間進んでいる。今、アイスランドは午前一時で東京は午前十時だ。
(今、安寿の高校は午前の授業中なんだろう。彼女はあの品のよいグレーの制服を着て、あの教室にいるんだろうな。それに、少しでも俺のことを思い出してくれているんだろうか……)
そんなことを思いながら、航志朗はスマートフォンと結婚指輪にキスして一人で目を閉じた。
アイスランド滞在中にこの土地の自然をこの目で見て回ろうと思った航志朗は、週末にエルヴァルから大型のオフロードカーを借りた。エルヴァルはクルルをガイド兼ナビゲーターとして薦めたが、航志朗は正直なところ戸惑った。
(年頃の女の子と車の中で二人きりはまずいんじゃないのか。安寿が聞いたら、嫌がるだろうな)
週末の早朝、航志朗の隣に乗り込んできたクルルは、航志朗の左手の薬指の結婚指輪を一瞥してから言った。
「コウシロウ、変な気を起こすなよ。僕は君のような男にはまったく興味がないからな」
航志朗はほっとため息をついた。
「それは絶対にない。俺にはトーキョーに心から愛する妻がいるからな」
「ふうん。多少は興味を覚えるな。君の妻はどんなひとなんだ?」
クルルは長い髪をかき上げて低い声で言った。
「どんなって、もうどうしようもないくらいに愛しているひとだ」
「じゃあ、どうして、今、一緒にいないんだ? ここに彼女を連れて来ればよかったのに」
ふいに航志朗は胸を突かれてうつむいて言った。
「本当に君の言うとおりだよ……」
あきれたようにクルルは目をむいて両肩を上げてから、また航志朗に尋ねた。
「君の妻の名前はなんて言うんだ?」
「アンジュだ」
「アンジュか。へえ、いい名前だな」
クルルは初めて航志朗に微笑んだ。それは、朝露がしたたる大きな葉の上に座った妖精のような美しい笑顔だった。
ウイークデーの朝、航志朗はエルヴァルのオフィスに午前九時に出社する。オフィスは航志朗が滞在しているアパートメントから歩いて約十分の場所に位置する。レイキャビクはこじんまりとしたシンプルな街だ。カラフルな街並みの向こうにはむき出しの岸壁が垣間見える。この国はモダンアートに造詣が深く、街じゅう至るところにアート作品を見ることができる。
広々としたワンフロアのオフィスの一角に新設する美術館の仮オフィスが設けられている。航志朗は自分でコーヒーを淹れて窓際の椅子に座った。そして、航志朗はパソコンを立ち上げて、新設する美術館の基本計画書を読んだ。それはクルルが自身で作成したものだ。自然豊かなアイスランドは百パーセント以上、自然エネルギーで電力を自給している。その約二十五パーセントが地熱発電による電力だ。当然、美術館の光熱設備はすべて地熱発電でまかなわれる。
ひと通り計画書を読み終えた航志朗は、クルルのアートへの静かな情熱に感心した。そして、意外に思った。
(彼女は、自分の美術館でアートコミュニケーションの場を作りたいのか)
クルルはいつも一人でいる。学校に行っていないということもあるのだろうが、同年代の友だちがいないようだ。三人の姉たちとも距離感があるように感じる。父親のエルヴァルだけがクルルの唯一の話し相手のようだ。
クルルの母親はシンガーで北欧中のライブハウスを巡っていると聞いた。エルヴァルとクルルの母親はすでに別れているが、もともと結婚はしていなかった。それはこの国では珍しいことではない。実はここに来てはじめてわかったことだったが、新設する美術館のスタッフは設備工事関係者以外はまだ航志朗だけだった。その事実に、航志朗は当初「金持ちのお嬢さんの道楽のアドバイザー」として雇われたのかと思った。しかし、すでにエルヴァルとクルルが収集したアイスランド人アーティストによる現代アート作品には航志朗を瞠目させるものがあった。
午前十時ごろにクルルは眠そうな目をこすりながらオフィスにやって来る。そして、ランチタイムを挟んで午後三時まで、ふたりは一緒に美術館の事業展開についての詳細を練る。エルヴァルの地熱発電所の近くに立地する美術館の施設はすでに建設が始まっていた。
航志朗は午後三時にエルヴァルのオフィスを出てアパートメントに戻る。そして、シンガポールのアンと連絡を取り、航志朗の本来の仕事を始める。アンは航志朗のアイスランド行きを快く送り出してくれた。アンは何よりも航志朗の博士号取得を心待ちにしているし、北欧におけるビジネス展開でのエルヴァルの強力なコネクションに期待しているのだ。ただアンが唯一心配しているのが、航志朗が東京に残してきた新妻のことだ。もともと女性に対して配慮が足りない航志朗が安寿に寂しい想いをさせているのではないかと、航志朗とは長い付き合いのアンは危惧した。
(だって、アンジュはまだ高校生なんだろう。寂しさのあまり、隣にいる男子生徒に走ってしまったりしないのかよ……)
午後八時を過ぎると航志朗はエルヴァルの自宅に顔を出して夕食をごちそうになる。レイキャビクの外れに住む長女のアンナが生後六か月の男の子を連れてきている時は、なぜか航志朗がその男の子を風呂に入れる役割になった。その男の子はアンナに似た黒髪とダークブラウンの瞳を持った東洋人のような顔立ちで、航志朗によくなついたからだ。はじめは恐る恐るだったが、エルヴァルの三人の娘たちに「パパになる練習だ」とおだてられて、今では腕まくりをしてその役目を果たしている。それだけではなく、航志朗はベビーを抱っこしてそのまま寝かしつけることにも慣れて、アンナにとても重宝がられている。アパートメントに戻ると、航志朗は毎晩ゆっくりと風呂に浸かる。アイスランドは各住宅に温泉がひかれているのだ。身体が芯から温まってきて航志朗は思った。
(もし、安寿がここにいたら、毎晩、間違いなく長風呂だろうな。ベッドで待っている俺をそっちのけにして……)
毎晩眠りにつく前に航志朗はスマートフォンの中にある安寿の写真をながめる。この二か月間、何度も安寿に電話しようと思ったが、どうしてもできなかった。安寿の声とその息遣いを聞いてしまったら、本当に何もかも投げ出して飛行機に乗ってしまいそうだからだ。東京はアイスランドより九時間進んでいる。今、アイスランドは午前一時で東京は午前十時だ。
(今、安寿の高校は午前の授業中なんだろう。彼女はあの品のよいグレーの制服を着て、あの教室にいるんだろうな。それに、少しでも俺のことを思い出してくれているんだろうか……)
そんなことを思いながら、航志朗はスマートフォンと結婚指輪にキスして一人で目を閉じた。