今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その一週間後、安寿の高校生活最後の三学期が始まった。安寿のクラスのほとんどの生徒たちはすでに卒業後の進学先が決まっていて、教室内はたいへんゆるんだ雰囲気になっていた。あちらこちらでスマートフォンを手に持ってショートメールを打ちまくっている女生徒たちや、べたべたとくっついているカップル、机に突っ伏して寝ている生徒たちが目につく。

 その光景をため息をついて眺めた担任の山口は、毎年のことながらこの時期の指導がやりにくくて仕方がなかった。

 そんな時、山口の目に二人の生徒の姿が目に入った。春を先取りしたようなたるんだ生徒たちの中で、その二人だけは熱心に自習をしていた。安寿と蒼だ。苦笑いした山口は心の内でつぶやいた。

 (そう。……彼らは本気なんだよな)

 昼休みに安寿は航志朗が書いた二枚目の白い便箋をスクールバッグの中から取り出した。三学期が始まってから数週間、安寿は迷いに迷ったが、どうしてもその二枚目の手紙の内容が知りたくて、蒼に翻訳を頼もうと思ったのだ。

 安寿は恐る恐る蒼に言った。

 「蒼くん、ちょっとお願いがあるの。これ、フランス語だと思うんだけど、訳してもらえないかな?」

 「なになに?」

 目ざとく莉子が白い便箋をのぞき込んだ。

 「きれいな文字! 安寿ちゃん、これ、何かの詩?」

 蒼は無言でその便箋を受け取ると目を通し始めた。安寿は胸がどきどきしてきた。蒼はだんだん不機嫌そうな表情になって、やがて何も言わずに安寿に便箋を突きつけるように返した。その蒼の態度を見て、安寿は心から後悔した。

 莉子が蒼にお構いなしで言った。
 
 「ねえねえ、蒼くん、なんて書いてあるの?」

 莉子の隣から大翔が苦笑いして言った。

 「莉子、空気読もうよ」

 蒼は肩をいからせて、安寿に重苦しい声で言った。

 「安寿、俺、その手紙、思いきり破きたいんだけど」

 「えっ?」

 安寿は驚いた。

 蒼は安寿の目を見すえて言った。

 「あのひとが書いたんだろ?」

 思わず安寿は顔を赤らめて下を向いた。蒼は深くため息をついた。

 莉子が顔を紅潮させて叫んだ。

 「安寿ちゃん! もしかして、岸さんからのラブレターなの? 蒼くん、訳して、訳して!」

 「嫌だ。絶対に嫌だ」

 思いきり蒼が顔をしかめた。

 「えー! どうしてー!」

 莉子が残念そうに文句を言った。大翔は莉子の肩を軽くたたいた。 

 「おいおい、莉子、もうやめろよ。蒼が気の毒だろ」

 あわてて安寿は便箋をスクールバッグにしまった。顔をしかめながら、蒼はまたフランス語の自習を始めた。

 その年は暖冬で、三月に入ったとたんに春めいてきた。卒業式まであと二週間をきった日曜日に、安寿は蒼からデートの誘いを受けた。蒼は卒業式の翌日にはパリに飛び立つ。安寿は誘いを断らなかった。

 早朝に安寿と蒼は東京駅で待ち合わせた。そして、電車に乗り、神奈川県の近代美術館に向かった。

 ふたりは最寄駅からバスに乗った。海沿いの狭い道路を美術館に向けてバスが走って行く。電車の中では離れた席に座っていたが、バスの中では二人掛けの座席に座った。狭い座席はふたりの身体を密着させる。ふたりは何も話さずに右側の窓の外に流れていく海を眺めた。海は陽光を反射して柔らかく輝いている。安寿はまぶしそうに目を細めて海を見た。蒼は目の前にある安寿の瞳に映った揺らめく光を胸を詰まらせながら見つめた。

 その近代美術館ではフィンランドのプロダクトデザイナーの展覧会が開催されていた。会場にはシンプルだが温かみのあるテーブルウェアやガラスのアートピースが並んでいた。安寿はひとつひとつの作品を丁寧に見ていった。蒼は安寿の後ろに黙ってついて行った。

 海を見渡せる休憩コーナーのソファにふたりは並んで座った。蒼は置いてあった展覧会のカタログを手に取ってめくった。安寿はネイビーのステンカラーコートを脱いだ。通学でも着ている蒼が見慣れたコートだ。安寿はその下に淡い紫色のウールカーディガンを着ていた。それを見た蒼が少し驚いたように言った。

 「安寿、そのセーターって、手編みのノルディックニットじゃないか?」

 安寿はうなずいた。さすがファッションデザイナーを目指している蒼だ、服のことをよく知っていると安寿は感心した。

 「うん。アイスランドのセーターなの」

 「やっぱりそうか。素敵なセーターだな。色もなかなか日本では見かけないきれいな色だし」

 安寿は嬉しそうに微笑んだ。
 
 蒼は少し躊躇しながら尋ねた。

 「……あのひとに、買ってもらったんだ?」

 安寿は小さくうなずいてから言った。

 「彼、今、アイスランドにいるの。もう七か月も会っていないんだ」

 「……そうか」

 蒼は安寿の左手の薬指の結婚指輪を見ながら思った。

 (これじゃあ、彼女にまったく手を出せないよな。……最後のチャンスなのに)

 ふたりは海が一望できる美術館内のレストランで昼食をとった。フィンランドのプロダクトデザイナーがデザインしたコバルトブルーのグラスに水が注がれた。安寿はグラスを手に取って海を透かしながら眺めて言った。

 「蒼くん、これから海岸に行ってみようよ。私、海を見るのって、とても久しぶりなの」

 どこまでも青い海を眺めながら蒼は思った。

 (安寿は、あのひとと海に行ったことがないのかもしれない)

 蒼は思わず嬉しくなって心を震わせた。

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