今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と蒼は美術館の脇道を通って海岸に下りて行った。潮の香りが混じった微風が頬をなでる。砂浜に出ると目の前にきらきらと真っ青な海面が輝いていて、安寿は目を細めた。遠目にはヨットが数隻見えた。まだ肌寒い海岸は人の出もまばらだった。低く穏やかな波の音がふたりを包んだ。
安寿はゆっくりと波打ち際に歩いて行った。突然、耳の奥に安寿は池のほとりで聞いた航志朗の怒鳴り声を思い出したが、しゃがんで海水を触った。それは冷たいような気もするし、生温かいような気もした。
今、隣にいる蒼は柔らかな笑顔で安寿の顔を見つめている。安寿は蒼に微笑みかけた。
安寿は熱心に砂浜に埋もれた小石を拾いはじめた。蒼は砂浜に座って安寿を見つめた。
(このまま、ずっと彼女を見ていたい。できることなら、一度でもいいから彼女を抱きしめたい)
蒼は胸の内で切実に思った。
陽光が西へと傾いていく。犬を散歩している人たちが何組も目の前を通り過ぎた。
(もう二時間近く経っているけど、よく飽きないな。安寿は小さな子どもみたいだ)
安寿はまだ小石を拾っている。蒼は苦笑いした。ずっと好きだった女の子を恋こがれて見つめているというよりは、自分の愛する娘を見守っている父親ような気分になってきた。目の前の海はただそこに青く存在していて、太陽の光を受けて輝いている。蒼はなぜか不思議な気持ちになった。
(いつかこの光景を俺は懐かしく思い出すんだろうな。ここから遠く離れたどこかの海で)
その時、離れたところでしゃがんでいた安寿が急に立ち上がり、蒼に向かって大声で言った。
「パパ、見て! こんなにたくさん拾っちゃった」
それは、あどけない発音のフランス語だった。
「えっ?」
驚いた蒼はあわてて立ち上がった。
安寿は左手を持ち上げてまた言った。
「蒼くん、見て! こんなにたくさん拾ったよ」
今度は日本語だ。
呆然とした蒼のもとに安寿は走り寄って来た。楽しそうに笑った安寿は、蒼の目の前に左手を突き出した。安寿の左手には小指の第一関節ほどの大きさの小石がこんもりとのっていた。白や黒、グレーやペールグリーンの小石に、水色や白く曇ったシーグラスもある。安寿は蒼に言った。
「このなかに、蒼くんの好きなものある? どれでも蒼くんにあげるよ」
蒼は目を細めて安寿を見下ろして言った。
「……全部、欲しい」
蒼は安寿に手を伸ばした。
海風に肩の下まで伸びた髪をなびかせて安寿は笑った。
「いいよ、全部あげる。ちょっと待ってて」と安寿は言い、海に向かって走って行った。安寿は波打ち際で革靴が濡れるのにも構わずにしゃがんで小石をゆすぎだした。
安寿の後ろ姿を見つめた蒼は上げた手を下ろして、深いため息をついた。
安寿は砂浜にティッシュペーパーを敷いて海水で洗った小石とシーグラスを並べて乾かした。安寿と蒼は並んで砂浜に座った。ふたりはしばらくの間、黙って目の前の静かな青い海を眺めていた。
「安寿、あの手紙……」
ぽつんと蒼がつぶやいた。安寿が海を見つめている蒼の横顔を見た。
蒼は安寿を見て、哀しげな瞳をして言った。
「……君への想いにあふれていた」
感情をうかがい知ることのできない透き通った瞳で安寿は蒼を見つめた。蒼は安寿の瞳をまっすぐに見返して言った。
「君を心から愛している。今すぐ君を抱きしめたいって」
蒼は海の上に広がる大空を見上げた。そして、蒼は無理やり笑って言い放った。
「くそっ、先に俺が君に言いたかったよ!」
蒼は立ち上がってボトムスの砂を払った。そして、安寿に手を差し出して言った。
「安寿、そろそろ帰ろうか」
安寿はその手をしっかりと握った。安寿と蒼は海を背にして歩き出した。蒼は安寿の左手を握っている。いやおうなく安寿の左手の薬指にはめられた結婚指輪の冷たくて固い感触を感じる。
(まったく人妻と不倫している男の気分になるよな……)
いったん蒼は安寿の手を離して右側に回り、安寿の右手を握った。東京駅に着くまで、ふたりはずっと手を握り合っていた。ときどき汗ばんだ手のひらをコートでぬぐいながら。安寿は後ろめたい気持ちになったが、蒼と手を握り続けた。
(手を握るだけならいいよね。蒼くんも、もうすぐ遠くに行ってしまうんだから……)
東京駅の改札でふたりは手を離した。蒼は安寿の黒髪をそっとなでてから地下鉄に向かって行った。安寿は人混みの中に紛れていく蒼の後ろ姿を見つめた。蒼の姿が見えなくなるまで。
そして、安寿は右手を見て思った。
(……蒼くんの手、とても温かかった)
安寿はゆっくりと波打ち際に歩いて行った。突然、耳の奥に安寿は池のほとりで聞いた航志朗の怒鳴り声を思い出したが、しゃがんで海水を触った。それは冷たいような気もするし、生温かいような気もした。
今、隣にいる蒼は柔らかな笑顔で安寿の顔を見つめている。安寿は蒼に微笑みかけた。
安寿は熱心に砂浜に埋もれた小石を拾いはじめた。蒼は砂浜に座って安寿を見つめた。
(このまま、ずっと彼女を見ていたい。できることなら、一度でもいいから彼女を抱きしめたい)
蒼は胸の内で切実に思った。
陽光が西へと傾いていく。犬を散歩している人たちが何組も目の前を通り過ぎた。
(もう二時間近く経っているけど、よく飽きないな。安寿は小さな子どもみたいだ)
安寿はまだ小石を拾っている。蒼は苦笑いした。ずっと好きだった女の子を恋こがれて見つめているというよりは、自分の愛する娘を見守っている父親ような気分になってきた。目の前の海はただそこに青く存在していて、太陽の光を受けて輝いている。蒼はなぜか不思議な気持ちになった。
(いつかこの光景を俺は懐かしく思い出すんだろうな。ここから遠く離れたどこかの海で)
その時、離れたところでしゃがんでいた安寿が急に立ち上がり、蒼に向かって大声で言った。
「パパ、見て! こんなにたくさん拾っちゃった」
それは、あどけない発音のフランス語だった。
「えっ?」
驚いた蒼はあわてて立ち上がった。
安寿は左手を持ち上げてまた言った。
「蒼くん、見て! こんなにたくさん拾ったよ」
今度は日本語だ。
呆然とした蒼のもとに安寿は走り寄って来た。楽しそうに笑った安寿は、蒼の目の前に左手を突き出した。安寿の左手には小指の第一関節ほどの大きさの小石がこんもりとのっていた。白や黒、グレーやペールグリーンの小石に、水色や白く曇ったシーグラスもある。安寿は蒼に言った。
「このなかに、蒼くんの好きなものある? どれでも蒼くんにあげるよ」
蒼は目を細めて安寿を見下ろして言った。
「……全部、欲しい」
蒼は安寿に手を伸ばした。
海風に肩の下まで伸びた髪をなびかせて安寿は笑った。
「いいよ、全部あげる。ちょっと待ってて」と安寿は言い、海に向かって走って行った。安寿は波打ち際で革靴が濡れるのにも構わずにしゃがんで小石をゆすぎだした。
安寿の後ろ姿を見つめた蒼は上げた手を下ろして、深いため息をついた。
安寿は砂浜にティッシュペーパーを敷いて海水で洗った小石とシーグラスを並べて乾かした。安寿と蒼は並んで砂浜に座った。ふたりはしばらくの間、黙って目の前の静かな青い海を眺めていた。
「安寿、あの手紙……」
ぽつんと蒼がつぶやいた。安寿が海を見つめている蒼の横顔を見た。
蒼は安寿を見て、哀しげな瞳をして言った。
「……君への想いにあふれていた」
感情をうかがい知ることのできない透き通った瞳で安寿は蒼を見つめた。蒼は安寿の瞳をまっすぐに見返して言った。
「君を心から愛している。今すぐ君を抱きしめたいって」
蒼は海の上に広がる大空を見上げた。そして、蒼は無理やり笑って言い放った。
「くそっ、先に俺が君に言いたかったよ!」
蒼は立ち上がってボトムスの砂を払った。そして、安寿に手を差し出して言った。
「安寿、そろそろ帰ろうか」
安寿はその手をしっかりと握った。安寿と蒼は海を背にして歩き出した。蒼は安寿の左手を握っている。いやおうなく安寿の左手の薬指にはめられた結婚指輪の冷たくて固い感触を感じる。
(まったく人妻と不倫している男の気分になるよな……)
いったん蒼は安寿の手を離して右側に回り、安寿の右手を握った。東京駅に着くまで、ふたりはずっと手を握り合っていた。ときどき汗ばんだ手のひらをコートでぬぐいながら。安寿は後ろめたい気持ちになったが、蒼と手を握り続けた。
(手を握るだけならいいよね。蒼くんも、もうすぐ遠くに行ってしまうんだから……)
東京駅の改札でふたりは手を離した。蒼は安寿の黒髪をそっとなでてから地下鉄に向かって行った。安寿は人混みの中に紛れていく蒼の後ろ姿を見つめた。蒼の姿が見えなくなるまで。
そして、安寿は右手を見て思った。
(……蒼くんの手、とても温かかった)