今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日は夕方になっても雨が降り続いていた。家に着くと、まだ恵は帰宅していなかった。ライトもつけずに薄暗い部屋の中で安寿は両足を抱えて座り込み、深いため息をついた。

 (私が岸先生のモデルになるなんて……)

 その時、雨に濡れた恵が肩で息をして帰って来た。

 「ただいま、安寿! さっき華鶴さんからお電話をいただいたわよ。岸先生があなたをモデルにして人物画を描きたいっておっしゃっているって! 驚いて傘落としちゃったわ」

 急に安寿の胸の鼓動が早まった。

 (もう恵ちゃんに伝わったの! 私はまだ決心がつかないのに)

 「安寿、どうするの?」

 恵は強い調子で尋ねた。

 「どうしよう。それよりも、恵ちゃん、いいの? 私が岸先生のモデルになっても」

 「正直、私はわからないわ。岸先生ご夫妻は名実ともに素晴らしい方々だと思う。それに、私たちとは住む世界が明らかに違う。でも、それが安寿にとって、良い経験をもたらすかもしれない。だけど心配だわ。だって、あなたの姿が世に出ることになったら……。華鶴さんは、安寿がモデルになった油彩画を国内の展覧会に出展することはしないし、売却する場合は海外在住の懇意にしている顧客にするから大丈夫って、おっしゃっていたけれど」
 
 (……油彩画の売却?)

 安寿は一抹の不安を覚えた。

 恵は安寿の目を見すえて言った。

 「安寿、あなたはどうしたいの?」

 (……私はどうしたいの?)

 安寿は自問自答した。でも、どんなに否定しようとしても答えはひとつしか出てこないのだ。むしろ答えを出すというより、もうすでに逃れられない運命の流れに身を投じてしまったような後戻りができない感覚を感じる。

 (そう。私は、岸先生のアトリエに自ら足を踏み入れたのだ)

 その瞬間、安寿の心は決まった。
 
 「私は岸先生のアトリエにまた行きたい」

 安寿ははっきりと恵に向かって言った。

 恵はもはや安寿の選択をひるがえすことはできないと悟っていた。安寿は慎重に思慮深く考え、こうと決めたら一途に突き進む気質だということを恵が一番よく知っている。しかし、恵には大きな不安も襲ってきた。安寿は、彼女の母である姉に本当によく似ている。だから底の見えない恐怖を感じる。安寿と二人きりになってから、姉と同じ無残な結末を安寿が迎えないように私がこの子を全身全霊で守ると、恵は身体じゅうが震えるような想いで何度も誓ってきた。たぶん天国にいる父と母に。そして、心から慕っていた姉に。
 
 その日のうちに安寿は伊藤と連絡を取り、岸のモデルになることを承諾する旨を伝えた。

 こうして、この時、十六歳の白戸安寿は、画家、岸宗嗣のモデルになった。
 
 
 
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