今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 同じ日に、岸のアトリエで安寿はひとりで絵を描いていた。安寿にとって三枚目の森の絵だ。昨年の夏に描いた高校の校内品評会で賞を取った絵よりも、明るい黄緑色をふんだんに使っている。それは春の息吹と来たるべき何かの予感を感じさせる作品だ。それが未来への明るい予感なのか暗い予感なのかは、鑑賞者の心の奥底に任せられる。

 先程まで一緒に並んで風景画を描いていた岸は、これから来客があるからと言ってサロンに向かった。今日は華鶴もいる。ふたりでその客を迎えるのだろう。
 
 いよいよ来週は卒業式だ。三年間さまざまな想いを抱えて通った高校との別れの時がやってくる。安寿は画筆を置いて、アトリエの窓の外からややくすんだ曇り空を見上げて思った。

 (彼は卒業式に出席してくれるのかな?)

 航志朗とは新年が明けてすぐの深夜に電話で会話をしたきりだ。安寿はため息をついた。ふとウッドデッキを見ると、桜の薄桃色の花びらが一枚落ちている。まだ今年の桜前線は東京に来ていない。不思議に思いながら安寿はウッドデッキに出て、その桜の花びらを手のひらにのせて見つめた。

 (森のどこかに、早咲きの桜の木があるのかもしれない)

 安寿はウッドデッキにいつも置いてある大きめの岸のサンダルを履いて、吸い寄せられるように岸家の裏の森に向かった。

 (航志朗さんから絶対に一人で森のなかに行くなって言われていたけど、昼間だし大丈夫だよね。ちょっと見に行くだけだから)

 大きいサンダルを履いているので歩きづらいが、池に向かう小道を一歩一歩慎重に安寿は歩いて、森の奥に向かった。やがて、池のほとりに着くと、一本の河津桜が目に入った。人知れず鮮やかな桃色の花を咲かせている。安寿はその木に近づいて木肌をそっとなでて語りかけた。

 「ひとりで静かに咲いていたのに、ごめんね。ちょっと私に見せてね」

 安寿はしばらくその桜の木を見上げた。そして、その色鮮やかな桃色を目に焼きつけた。身体じゅうが桃色に染まってしまったと思ってしまうくらいに。そして、久しぶりに見る池を眺めた。池の水は相変わらず灰色で、ゆらゆらと揺れていた。弱い陽の光に照らされて、水面に無数の大きな目が浮かんでいるように見える。安寿は池に見張られているような気がしてきて、急に恐怖を覚えた。

 すぐに屋敷へ戻ろうと後ろを振り返った時、木陰に人影が立っていることに気がついた。見るまに目を輝かせた安寿は胸をときめかせて思った。

 (航志朗さんだ! もう、彼は、いつも私の前に突然現れるんだから……)

 安寿は顔をほころばせて、その名前を口に出そうとした。

 「こう……」

 突然、安寿はその人影の正体に気づいた。背筋に悪寒が走って全身が硬直した。そこには見知らぬ男が立っている。航志朗くらいの背丈の年齢不詳の男だ。その男は墨色の着物を着て、こちらを見ている。思わず安寿は悲鳴をあげそうになったがなんとかこらえて、やって来た小道を走ってアトリエに戻ろうとした。
 
 その時、その男がしっとりと落ち着いた声で安寿に声をかけた。

 「ねえ、君、怖がらないで。僕は不審者じゃないよ。まあ、そう見えるかもしれないけどね」

 その男は軽く握った手を口に当てて可笑しそうに笑った。それは目を引く品のあるしぐさだった。男は続けて言った。

 「君は、安寿さんだね? 華鶴おばさまがおっしゃっていた」

 「……華鶴おばさま?」

 おもむろに男は音もなく安寿に近づいて来て言った。

 「そう。僕は、華鶴おばさまの甥で、黒川皓貴(くろかわこうき)と申します。どうぞよろしく、安寿さん」

 黒川は優雅な身のこなしで安寿に会釈した。呆然としたままの安寿に黒川は補足した。

 「僕は、航志朗くんの従兄(いとこ)だよ。彼とはしばらく会っていないけれど」

 少し後ずさりして安寿はまじまじと黒川を見つめた。言われてみれば、確かに航志朗に少し似ているような気がするが、雰囲気は全然違う。一見、端正な顔立ちで物腰が柔らかく優しそうだが、その瞳の奥に得体のしれないものを感じる。先程からずっと自分の身体が小刻みに震えていることを、安寿はようやく意識した。安寿は何も言わずにお辞儀をすると、岸家に続く小道に向かおうとした。

 その時、左足に履いたサンダルが地面にむき出した木の根につまずいて、安寿は体勢を崩した。

 (また同じところをけがしちゃう!)

 倒れながら安寿は思わず目をつぶった。

 その瞬間、安寿は自分の腰に華奢な指がきつく食い込んだことを感じた。ぬるっとした嫌な感触に安寿は鳥肌が立った。とっさに手を伸ばした黒川に安寿は抱きとめられていた。安寿の顔を覆った黒川の着物から何かお香のような不思議な香りがした。

 黒川はそのまま安寿の顔の近くでにっこりと微笑んで言った。

 「大丈夫? 安寿さん」

 真っ赤になった安寿はあわてて黒川から離れて、「すいませんでした!」と叫ぶように言って走り出した。黒川は安寿の不安定な様子で走り去って行く後ろ姿を見送りながらつぶやいた。

 「彼女、本当に人妻? 男を知らない女子高生のような腰つきだったな」

 アトリエに戻った安寿はすぐに窓の鍵を閉めた。そして、深呼吸を何回もして、気持ちを落ち着けた。まだ身体が震えている。黒川に触られた腰がものすごく気持ち悪い。安寿は航志朗に今すぐ会いたくてたまらなくなった。安寿は目をきつく閉じて、遠く離れた航志朗の存在を感じ取ろうとした。
 
 そこへ浮かない顔をした岸がやって来て、安寿に言いづらそうに話した。

 「安寿さん。すいませんが、今、華鶴さんのご実家の黒川家ご当主がいらっしゃっているので、ご紹介させていただきたいのですが」

 すぐに安寿はわかった。さっきのあの男のことだ。安寿は仕方なくうなずいて岸の後について行ってサロンに入った。

 ソファに向かい合わせで座って、華鶴と黒川は親しげに談笑していた。華鶴は安寿に気がつくと、安寿を隣に座らせて言った。

 「安寿さん、こちらは、私の亡くなった兄の一人息子の黒川皓貴さん」

 黒川は座ったままで微笑みながら安寿に会釈した。

 「皓貴さん、彼女が宗嗣さんのモデルで、航志朗さんの妻の安寿さんよ」

 黙って安寿は黒川にお辞儀をした。

 「おふたりともお見知りおきを。来月から同じ大学にいらっしゃるんですからね」

 驚いた安寿は華鶴を見た。華鶴は口元に笑みを浮かべて言った。

 「皓貴さんは、四月から清美大の准教授になられるの。ついこの間まで、京都の大学で講師をされていたのよ。彼の専門は日本美術よ」

 黒川が安寿を見て言った。

 「今、華鶴おばさまから聞いたばかりなんだけど、安寿さんはこの春に付属高校をご卒業されて、清美大にご入学されるんですね。お互い新入りですね。どうぞお手柔らかに」

 黒川は安寿に向かって右手を差し出した。岸と華鶴は黙って安寿を見た。安寿は嫌々ながらもおずおずとその手を軽く握った。黒川の華奢な手は指が細長く、妙に生温かい。安寿の手は微かに震えていた。それに気づいた黒川は、その細い指で安寿の手のひらをくすぐるようになでた。安寿はまた全身に悪寒が走った。すぐに安寿は黒川の手を離し、立ち上がってお辞儀をしてアトリエに戻って行った。サロンの奥では、その一部始終を見届けた伊藤が険しい顔をして控えていた。

 安寿を鋭い目線で見送ってから、黒川はコーヒーをひと口飲んで立ち上がって言った。

 「宗嗣おじさま、華鶴おばさま、そろそろ失礼いたします」

 黒川はふと思い出したかのように続けて言った。

 「先ほど、初めて黒川家名義の森を見てきましたよ。陰気くさくて、資産価値のまったくない僕の森をね」

 着物の襟を直した黒川は薄く笑った。その姿を見つめた岸も華鶴もまったくの無表情だった。

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