今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は小川の岸辺に座った。航志朗は安寿を後ろからしっかりと抱きしめて、ずっと安寿の髪をなでていた。安寿は泣いていない。目の前に流れる小川を透き通った瞳で見つめていた。五歳の時の微かな記憶をぽつりぽつりと航志朗に話していた時も安寿は泣いていなかった。

 安寿は立ち上がると車の中からコサージュと花束を持って来た。安寿はコサージュの針金と安全ピンを外し、花束から包装紙を取った。生花だけになったコサージュと花束を安寿は半分に分けて航志朗に手渡した。航志朗はそれを丁重に受け取った。

 安寿と航志朗は無言で岸辺に花をたむけた。そして、手を合わせて目を閉じた。

 目を開けた安寿は航志朗の手を握って、穏やかな優しい声で彼の名前を呼んだ。

 「航志朗さん」
 
 航志朗は愛おしそうに安寿を見つめた。

 「私、あなたに言うのを忘れていました」

 航志朗はうなずいて、安寿の次の言葉を待った。

 「おかえりなさい、航志朗さん」

 そう言うと柔らかく安寿は微笑んだ。

 航志朗はその琥珀色の瞳を潤ませて言った。

 「ただいま、安寿」

 航志朗は安寿を腕の中に抱きしめた。安寿は航志朗の胸にしがみついた。ふたりの前の小川はきらきらと光の粒を踊らせて輝きながらとめどなく流れて行った。

 「そろそろ、帰りましょうか」と安寿が言った。

 「私、お腹空いちゃった」

 航志朗がジャケットのポケットからスマートフォンを取り出して時計を見た。

 「あ、もう三時すぎだ」

 ふたりは立ち上がって土ぼこりを払ってから、手をつないで車に戻った。安寿はスクールバッグの中からポーチを取り出して髪をとかしリップクリームを塗った。航志朗もバックミラーを見て前髪を直した。

 航志朗が安寿に言った。

 「安寿、俺のボスが岸家に先に行っていて、俺たちを待っているんだ」

 素直に安寿はうなずいた。

 「はい。伊藤さんからお聞きしています」

 「いちおう先に言っておく。俺のボスは、アイスランド人の十六歳の女の子だ」

 安寿は驚いた表情を浮かべた。航志朗は内心あせりながら早口で言った。

 「いちおう先に言っておくけれど、彼女と俺の関係は、ただの上司と部下だ。誤解しないでほしい」

 「……わかりました」と安寿はうなずいて納得したようだったが、航志朗が恐る恐る安寿の顔色をうかがうと、安寿は口を固く閉じて怪訝そうな顔をしている。思わず航志朗は深いため息をついた。

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