今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 食事室では咲が夕食の配膳をしていた。咲はいつにも増して張りきっている。航志朗は腕まくりをして咲を手伝っていた。

 クルルは席に座って興味深そうにダイニングテーブルの上を眺めた。和洋折衷のメニューだ。岸家の正月に使われる輪島塗の重箱には、美しく飾り切りされた温野菜のサラダが詰められていた。それから、サーモンを中心とした華やかなちらし寿司とブラウンシチューが並び、オーブンからは焼きたてのパンの香りがして来た。

 岸が安寿をともなって食事室に入って来た。ふたりが仲良さそうに微笑み合っているのを見て、また航志朗は顔をしかめた。

 クルルは航志朗と成田空港で別れた後の話をした。当然、航志朗と安寿が帰宅するのが遅くなると見込んでいた伊藤はクルルに東京を案内していた。

 岸家の車の後部座席に座ったクルルは伊藤が用意したタブレットのタブを開いて、行きたい場所をリクエストした。

 クルルと伊藤は都内の数か所の美術館と博物館に行った。それから、新宿の大型画材店に行き、大量のアクリル絵具と画筆を買い込んだ。

 また、伊藤は咲と美術展を鑑賞した後によく訪れる上野の甘味処にクルルを連れて行った。抹茶アイスがのったあんみつをクルルは夢中になって口に運んだ。豆かんを食べながら伊藤はその可愛らしい姿に微笑んだ。もちろん、伊藤は土産のあんみつを買って来ていた。食後に皆でデザートに食べた。クルルも本日二回目のあんみつを食べた。航志朗にうながされて咲もご相伴にあずかった。

 英語で伊藤がクルルに尋ねた。

 「クルルさま、今夜の寝具はどうなさいますか? 洋室でベッドにいたしますか。それとも、日本式の畳のお部屋でお布団のご用意もできますが」

 すっかり伊藤を信頼しきった様子でクルルが即答した。

 「せっかくなので、日本式の部屋で寝てみたいです」

 伊藤はクルルにうなずいてから、航志朗に向かって平然と言った。

 「後ほど、航志朗坊っちゃんのお布団は、安寿さまのお部屋にお運びいたします」

 航志朗と安寿は同時に目を見開いた。いぶかしげに思いながら航志朗が言った。

 「それには及びません。自分で客間から運びます」

 その時、ひそかに航志朗は思った。

 (どういうことだ? 急に伊藤さんは俺たちの味方になったのか)

 安寿は風呂から出て自室に向かった。胸がどきどきしている。部屋には航志朗がいるのだ。だが、安寿は耐え難い眠気を感じてもいた。バスタブの中で眠りに落ちそうなって、何回も力が抜けて顔を湯船につけてしまった。

 念のためノックしてから部屋に入ると、安寿のデスクの上にノートパソコンを開いて、航志朗が仕事をしていた。すでに航志朗は入浴してダークネイビーのパジャマ姿だ。

 安寿がやって来たことに気づいた航志朗はキーボードを打つ手を止めて言った。

 「もう少し仕事をしたいからサロンに行って来る。キーを叩く音がうるさいだろ?」

 安寿は首を振って言った。

 「大丈夫です。そのまま続けてください」

 眠たげな目をした安寿は口を手で押さえて大あくびをした。そのあどけない表情を見た航志朗はもう仕事を続けられなくなった。航志朗はデータをセーブしてからノートパソコンを閉じて言った。

 「安寿、一緒に眠ろうか」

 安寿はこくんとうなずいた。まぶたが重くなった安寿はうつらうつらしている。航志朗は思わず苦笑いした。ベッドと布団のどちらがいいかと訊く前に、安寿はカーペットの上に敷かれた来客用の布団の中に小動物のようにもぐり込んだ。そして、すぐに動かなくなった。航志朗もあわてて布団の中に入った。陽の香りがしてふかふかの布団だ。横向きに寝た安寿は目を閉じて、すでに穏やかな寝息を立てていた。本当に久しぶりの安寿の寝顔だ。航志朗はくすっと微笑んだ。そっと安寿の髪をなでながら、航志朗は安寿の顔を見つめて思った。

 (今、安寿と一緒にいる。こんなに近くで。なんて可愛らしい顔をしているんだ。俺は安寿を離さない。……絶対に)

 航志朗は安寿の身体に腕を回して抱きしめた。安寿は眠りながら航志朗の身体にぴったりと身を寄せた。そして、安心したかのように航志朗の胸に愛くるしく顔をこすりつけた。思わず歓喜がこみ上げてきた航志朗は、微笑みを浮かべながら安寿の額にそっとキスして目を閉じた。

 
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