今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第14章 合同制作

第1節

 卒業式の次の日は曇り空だった。まだ薄暗い時間に安寿は目を開けると、布団の中で航志朗に抱きしめられていることに気づいた。

 たまらない気持ちになって安寿は航志朗の身体にしがみついた。安寿は航志朗の胸の鼓動を感じた。耳をすませてその音を聴く。ゆっくりだが力強い音だ。真っ赤な血が航志朗の身体じゅうをめぐり、自分のなかに勢いよく流れこんでくるように感じる。その感覚に気持ちを高ぶらせた安寿は航志朗の身体に回した手の力を強めた。今、自分のすべてを航志朗に捧げてもいいと心の奥底から安寿は思った。

 やがて、航志朗が薄く目を開けてぼんやりと安寿を見た。だんだん意識がはっきりしてくると安寿が顔を真っ赤にさせていることに気づいて、あわてて航志朗は安寿の額に手を当てた。そこは熱くはなくて温かかった。それに少し汗ばんでいた。

 安寿と航志朗は布団の中で見つめ合った。安寿は我慢できずに自分から航志朗にキスした。航志朗は大きく目を見開いた。だが、すぐに安寿を強く抱きしめてそれに応えた。

 もう安寿と航志朗は唇を重ねると激しく互いを求め合ってしまう。息が苦しくなってきた安寿はいったん唇を離して、航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。本当に吸い込まれそうなほどに美しい瞳だと安寿は心から思った。そして、思いきり航志朗に抱きついて、その身体を密着させた。思いがけず積極的な安寿の態度に航志朗は身体じゅうがうずいて仕方がなかった。このまま安寿のなかに入りたいと身を震わせて航志朗は思った。

 息を荒げながら安寿が言った。

 「航志朗さん、お願いがあります。私に……」

 航志朗の胸は早鐘を打ち始めた。
 
 (ま、まさか、今……)

 航志朗の心は甘い期待でいっぱいになった。

 頬を染めた安寿が消え入るような声で懇願した。

 「もう一度、あの曲を私に聴かせてください。昨年の夏に弾いてくれたあのピアノソナタを」

 いきなり拍子抜けした航志朗は正直思った。

 (『月光』をこんな朝っぱらからか……)

 思わず航志朗は深いため息をついた。航志朗は起き上がって安寿に言った。

 「もちろんいいよ。これから君のために弾くよ」

 驚いた顔をして安寿が言った

 「こんな早朝にですか。クルルさんや岸先生を起こしてしまいます」

 苦笑いしながら航志朗が言った。 

 「サロンは防音になっている。廊下へ出るドアを閉めれば問題ない」

 身体の熱が冷めやらないまま、航志朗は安寿を強引に引っぱってサロンに連れて行った。ふたりはまだパジャマのままだ。

 安寿はサロンの窓のカーテンを開けた。弱い日の光に浸される。航志朗は手早くグランドピアノの準備をした。なんとはなしに安寿はソファに座った。それを横目で見た航志朗はまた安寿を引っぱって、ピアノの前の長椅子の中央に座らせた。怪訝そうに安寿は航志朗を見つめた。航志朗は安寿を両脚の間に挟んで、後ろから抱きしめるように座った。

 安寿は胸をどきどきさせながら言った。

 「あの、邪魔じゃないですか?」

 「まったく問題ない。このほうが臨場感があって面白いだろ」

 そう言うと航志朗は愉しそうに笑顔を浮かべた。

 航志朗はなめらかにピアノソナタを弾き始めた。安寿はどんどん胸の鼓動が早くなっていく。両腕に航志朗がピアノを弾く腕が当たって擦れる。航志朗の両腕の筋肉がしなる感触に胸が高鳴る。静謐な曲想に航志朗の身体が揺れ、同時に安寿の身体も揺らされる。それは身体じゅうがとろけていくような初めての感覚だ。ピアノを習ったことがない安寿は、ピアノは手の指だけで弾くのではなく、身体全体を使って弾くのだということがわかった。

 安寿は自分の下半身を意識した。航志朗の両脚の間に挟まった安寿はいやがおうにも感じてしまう。いつも冷えきっている航志朗の身体が、そこだけは熱を帯びていることを。

 安寿は身体じゅうが熱くなっていくのを自覚した。思わず振り返って航志朗の顔を見た。ピアノを弾きながら航志朗は安寿に笑いかけた。

 第一楽章と第二楽章の合間に航志朗は安寿の右耳に安寿の横髪を掛けた。航志朗は軽快に第二楽章を弾きながら、安寿のむき出しになった右耳に唇を這わせた。安寿の右耳はすぐに真っ赤になった。航志朗は目を細めながら安寿の柔らかい耳たぶを優しく吸った。身体がうずうずしてどうしようもなくなった安寿は腰をひねって航志朗に抱きついた。

 やがて、第三楽章に入った。安寿にしがみつかれながら、航志朗は16分音符のアルペジオやトレモロを正確に弾いていった。深く心を揺り動かされて、居てもたってもいられなくなる曲調だ。安寿は航志朗の背筋が激しく小刻みに動くのを感じる。安寿は自分の感情が押さえきれなくなってきて、宙に浮いた両足を激しく揺らして動かした。航志朗が愉快そうに安寿を見た。

 その瞬間、目を固く閉じた安寿はそれを見た。茶色の牛たちが天に向かって駆け上がって行き、次々に天上に吸い込まれていく。安寿は光り輝く天上を見上げた。

 曲が終わった。サロンは静寂に包まれる。長椅子の上で安寿と航志朗はきつく抱き合った。

 「どうだった?」と航志朗は安寿の耳元で訊いた。安寿は目を潤ませて航志朗に口づけた。

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