今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日、咲は安寿に見せたいものがあるからと言って、初めて安寿を自宅に招いた。伊藤が朝から所用で鎌倉へ出かけていた日曜日だった。

 伊藤夫妻の家は岸家の敷地の外れにある。岸家の屋敷に似た白壁のこじんまりした平屋で住み心地がよさそうだった。なによりも掃除がすみずみまで行き届いていた。

 安寿はリビングルームに通された。咲は紅茶を淹れてくるからと言って台所に行った。

 日当たりのよいリビングルームの暖炉の上には、少し色褪せた伊藤と咲の結婚記念写真が飾ってあった。燕尾服とシンプルなウエディングドレスを身にまとったふたりが幸せそうに写っていた。それを見て安寿は微笑んだ。

 ふと反対側の壁を見ると卓上の花の油彩が額装されて飾ってあった。思わず心惹かれた安寿はその作品に近寄って丹念に見入った。

 安寿はひと目でこの絵が気に入った。赤やピンクやオレンジ色のバラの花が朗らかに伸び伸びと描かれている。元気をもらえる美しい絵だ。安寿はにっこりと微笑んだ。よくよく見ると、右下に「K.K.」と小さくサインが書き込まれてあった。はっとして安寿は目を大きく見開いた。

 そこへ紅茶とクッキーをトレイにのせた咲がやって来た。咲は膝をついてソファの前のローテーブルにトレイを置くと、優しいまなざしで安寿をしばらく見つめてから尋ねた。

 「誰がその絵を描いたのか、安寿さまならおわかりですよね?」

 安寿はしっかりとうなずいてから言った。
 
 「はい。航志朗さんですね」

 咲は安寿を見て寂しそうに微笑んだ。安寿は咲の瞳の奥が潤んでいることに気づいた。

 「この絵は、航志朗坊っちゃんがイギリスに旅立たれる前に、私が無理を言って航志朗坊っちゃんに描いていただいたんです。その二週間前に、突然、航志朗坊っちゃんは、私に『今まで本当にありがとうございました』と言って、とても美しい花束を贈ってくださいました」

 咲は安寿をソファに座るようにうながした。ふたりは並んで座った。咲は紅茶をひと口飲んで続けた。

 「私は心から嬉しく思いました。でも、本当はとても悲しくて仕方がなかった。だって赤ちゃんの頃からお世話をしてきた航志朗坊っちゃんが遠くへ行ってしまうんですもの。まだ十五歳なのに」

 そう言うと咲は涙ぐんだ。咲は立ち上がってティッシュペーパーの箱を持って来た。そして、二枚引き出して目頭を拭いた。

 「生花は美しいけれど、やがて枯れてしまう。私はこの花束を絵に描いてください、航志朗坊っちゃんの代わりだと思って大切にしますからと頼みました。航志朗坊っちゃんは三年ぶりに画筆を取って描いてくださいました。後日、それを聞いた秀爾さんに、私はとても怒られました」

 咲は両目を固く閉じた。

 安寿はつぶやいた。

 「……三年ぶり、ですか」

 遠い目をしてから咲は涙目になった。

 「航志朗坊っちゃんは、お小さい頃から絵を描かれていたんですよ。それはそれは楽しそうに。でも、だんだん絵を描くのがつらそうになられていきました。そして、おじいさまがお亡くなりになられると、絵を描くことをおやめになりました」

 咲は目を伏せて言った。

 「安寿さま、航志朗坊っちゃんは幼い頃から本当にたくさん傷ついてきたんです。あんなに早く家を出ることをご自身でお決めになられたのだって……」

 そこで絶句して咲は涙を流した。

 咲は安寿の手を握って頭を下げた。

 「安寿さま、どうぞ航志朗坊っちゃんをよろしくお願いいたします。安寿さまなら、きっと傷ついた航志朗坊っちゃんの心を救うことができます」

 その時、安寿は何も言えなかった。

 (私は、いつか、航志朗さんと別れなければならないのに)

 帰り際に咲は今日のことは秀爾さんには内緒にしてくださいと安寿に頼んだ。もちろん安寿は黙って咲にうなずいた。

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