今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふと我に返った安寿は台所の時計を見た。午前八時だ。安寿は咲に言った。

 「咲さん、部屋で長襦袢に着替えてきます。お手数ですが、着付けをお願いします」

 咲が驚いたように言った。

 「安寿さま、これからモデルのお仕事をされるんですか?」

 当然のことのように安寿はうなずいた。

 「はい。今日は土曜日ですから」

 安寿は航志朗に向かって言った。

 「航志朗さん、モデルの仕事が終わったら、制作に取りかかります。どうぞごゆっくりコーヒーをお飲みになられてくださいね」

 紅茶を飲み干した安寿はティーカップを台所に運んでから食事室を出て行った。

 咲が感心したようにつぶやいた。

 「安寿さまは、本当に責任感が強くていらっしゃるわ」

 航志朗は無言で安寿を見送った。

 ほどなく安寿は白い長襦袢を着てサロンに入って来た。ソファに座ってスマートフォンをなんとなく眺めていた航志朗は、安寿の姿を見て固まった。

 畳紙(たとうし)に包まれた着物を持って来た咲が、航志朗の目の前で安寿に着物を着付け始めた。深い紺地の麻の越後上布だ。白い十字の蚊絣(かがすり)が入っている。真っ白な帯には膨れ織で七宝つなぎが織られている。ひんやりと涼しげな麻の織物は白い長襦袢が透けて見える。それがなんとも艶っぽくて、航志朗は胸がどきっとした。

 咲が航志朗のしまりのない顔を盗み見て、くすっと笑った。若い女性が着るには地味な着物だが、安寿には妙に似合っている。航志朗はその姿をスマートフォンに収めた。それに気づいた安寿は航志朗に向かってはにかんだ。安寿は仏頂面をしなかった。

 航志朗は立ち上がると、安寿のそばに寄って身をかがめて言った。

 「安寿、とてもきれいだよ」

 頬を赤らめて安寿はうつむいた。

 航志朗と目を合わせるのが恥ずかしくて、視線を外して時計のほうを見た安寿は、急に心配になって航志朗に尋ねた。

 「クルルさん、遅いですね。大丈夫でしょうか」

 航志朗が笑いながら答えた。

 「ああ、クルルは朝に弱いんだ。まだ眠っているんじゃないのか。時差もあるし」

 その言葉を聞いた安寿はあわてて尋ねた。

 「航志朗さんは、時差大丈夫なんですか? ごめんなさい。私、ぜんぜん思い至らなくて」

 穏やかな口調で航志朗が言った。

 「俺は大丈夫。君に会ったら、すぐに君と同じ時間になれるから」

 ほっとした安寿は航志朗を着物姿で愛おしそうに見つめた。思わず航志朗は胸の鼓動が早まった。

 アトリエに向かう途中で、安寿はふと気になって客間に行った。中をうかがうが物音ひとつしない。安寿はクルルが心配になってきた。どうしても放っておけなくて、両膝をついて安寿は襖をそっと開けた。

 薄暗い部屋でクルルが掛け布団にくるまっている。まだ眠っているようだ。プラチナブロンドの長い髪が敷布団からこぼれ落ちていた。安寿は少しだけ安心して襖を閉めようとした。

 その時、クルルが何かを言うのが聞こえた。なんだかうなされているようだ。

 安寿は客間の中に入ってクルルのそばに正座した。クルルはまた何か言った。でも、安寿はクルルが何を言っているのかわからない。英語でもないようだった。だが、ひとつだけわかる単語があった。クルルはところどころで、「ママ……」とか細い声で言っていた。

 ほっそりとした華奢な手が掛け布団から安寿の目の前に出て来た。クルルの指先は何かを探すように動いていた。安寿は思わずその手を握った。目を閉じたままでクルルは強く握り返してきた。

 しばらく安寿はクルルの手を握っていた。やがてクルルは目を覚まし、誰かと手をつないでいることに気がついた。その温かい手の向こうに安寿の姿が見えた。クルルはぼんやりとした瞳でつぶやいた。

 「アンジュ……」

 安寿はクルルのヘーゼルカラーの透き通った瞳をしっかりと見てうなずいた。

 突然、クルルは起き上がって安寿に抱きついた。安寿はクルルをしっかりと抱きしめてその背中をなでた。

 クルルは完全に起きて顔を真っ赤に染めて、あわてて安寿から離れて下を向いた。

 安寿は優しい声でクルルに言った。

 「クルル、お腹空いたでしょう。温かいフレンチトーストを朝食にどう? 日本の甘くておいしいイチゴも一緒にね」

 安寿はクルルの手を握って食事室に向かった。ふたりはサロンを通った。麻の着物をまとった安寿とパジャマ姿のクルルが手をつないで、ソファに座った航志朗の目の前を通って食事室に入って行った。

 クルルは頬を赤らめて素直に安寿に手を引かれている。航志朗は大きく目を見開いた。

 (本当に安寿には驚かされっぱなしだ……)

 食事室の椅子にクルルを座らせてから、安寿は台所に行ってクルルの朝食を用意しようとしたが、咲が代わってフレンチトーストを焼いてくれた。安寿はコーヒーを淹れた。クルルの前に湯気の立つコーヒーカップを置いてから、コーヒーサーバーを持ってサロンに行き、空になった航志朗のカップにコーヒーを注いだ。呆然と航志朗は安寿を見つめた。

 その後、安寿はトレイに紅茶を淹れたティーポットとティーカップ、フレンチトーストとイチゴを盛ったガラスプレートをのせてアトリエに運んで行った。

 航志朗は安寿の後ろ姿を険しい表情で見送った。

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