今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と航志朗が食事室に行くと、咲が昼食の準備をしていた。山盛りのサンドイッチだ。クルルが具をはさむのを手伝ってくれたと咲が嬉しそうに報告した。
車の排気音に気づいた安寿は窓の外を見た。華鶴が自分で車を運転して門の外へ出て行くのが見えた。空を見上げると陽が出て明るくなっている。春の気配を感じさせる柔らかく温かい風が頬に触れた。ふと安寿は思いついて航志朗に提案した。
「航志朗さん、クルルと三人でピクニックをしませんか?」
航志朗は不思議そうな表情を浮かべた。
「ピクニック? どこで」
「裏の森の池のほとりで」
目を細めて咲が言った。
「まあ、安寿さま、グッドアイデアですね。さっそく準備しましょう」
安寿とクルルは手をつないで池のほとりに向かう小道を歩いている。クルルは興味深そうに辺りを見回している。ふたりの後を航志朗は大きなバスケットを持ってついて行った。
並んだふたりの後ろ姿を見て、航志朗はつくづく思った。
(不思議な光景だな。着物姿の安寿とジーンズ姿のクルル。背丈はほぼ同じ。でも、まったく違和感がないのは、ふたりともインディゴブルーの服を身に着けているからか)
森に入るとクルルはすぐに気がついた。安寿に鼻を手であおぐジェスチャーをしながら英語で言った。
「アンジュ、この森、匂う」
こくんと安寿はうなずいてから訊いた。
「クルルは、この匂い、好き? 嫌い?」
クルルがはっきりと答えた。
「僕は嫌い」
安寿もはっきりと言った。
「私は好き」
安寿とクルルは肩を揺らして楽しそうに笑い出した。そんなふたりを航志朗がまた不思議そうに眺めた。クルルが振り返って航志朗に尋ねた。
「コウシロウ、君はこの匂いをどう感じるんだ?」
航志朗は怪訝な表情を浮かべて言った。
「この匂いって? 何にも俺には感じないが」
クルルと安寿は驚いたように顔を見合わせてから航志朗を見た。航志朗は首をかしげた。
三人は池のほとりに着いた。両手を腰に置いてクルルは池の水面をしばらく凝視した。
確信を持った口調でクルルが言った。
「この池の水、触ってはいけないな」
今度は安寿と航志朗が驚いて顔を見合わせた。航志朗がクルルの横顔をのぞき込んで尋ねた。
「クルル、どうしてそう思うんだ?」
クルルは顔をしかめて言った。
「直感だ。理由なんてない」
わざと航志朗は意味ありげな目線を安寿に送った。だが、安寿はそれを受け流して池を見つめた。灰色の池は暗くにごっているが、なぜかどこまでも透き通っているようにも見える。安穏なものなのか不穏なものなのかまったくわからないが、何かがそこに息づいているような気がして安寿は目を凝らしたが何も見えなかった。
突然、クルルが明るい表情になって尋ねた。
「あの木、もしかしてサクラか?」
はっと顔を上げて安寿がうなずいた。花の盛りはとっくに過ぎたが、まだちらほらと薄桃色の桜の花が咲いている。クルルは小走りで桜の木へ向かって行った。
安寿はあの男のことを思い出した。航志朗には隠すことができない。航志朗の気を悪くさせるのはじゅうぶん承知で安寿は正直に言った。
「航志朗さん、ごめんなさい」
いきなり安寿に謝られて、航志朗は当惑した。
「どうしたんだ、安寿?」
「私、十日ほど前に、ここに一人で来ました。桜の花が見たくて」
「そうだったのか」
航志朗は安寿の髪を軽くなでた。別に怒ったりはしないと安寿を安心させるように。
安寿は不安そうな影をその瞳に浮かべて、訴えるように航志朗に言った。
「その時、ここで、私、黒川さんに会いました。航志朗さんの従兄の」
航志朗は目を大きく見開いた。
「皓貴さんにか!」
安寿は目を固く閉じてうなずいた。
努めて冷静さを保ちながら航志朗は訊いた。
「安寿、大丈夫だったのか? 何か皓貴さんに言われたりはしなかったか」
航志朗はどうしても早口になってしまった。
声を少し震わせながら安寿が言った。
「はい。大丈夫でした。ただ、黒川さんは来月から清美大の准教授になられるそうです」
「なんだって!」
思わず航志朗は大声を出してしまった。航志朗は安寿の肩を強くつかんだ。恐る恐る安寿が見上げると、航志朗が険しい顔をして池をにらんでいた。その姿に安寿は胸騒ぎがしてならなかった。
クルルが戻って来て言った。
「サクラの花って匂いがしないんだな。この森の匂いのせいで感じないだけなのか」
安寿は心配そうにクルルに尋ねた。
「昼食をいただく場所、お屋敷のお庭の方がいい?」
安寿の言葉にクルルはうなずいた。
結局、三人は岸邸の庭にレジャーシートを広げてサンドイッチを食べた。先程から航志朗は黙り込んで何かを真剣に考えているようだった。安寿は不安げに航志朗を見つめた。クルルはそんな二人の様子に気づきつつもサンドイッチにかぶりついた。こんなにおいしいサンドイッチは生まれて初めてだと思いながら。
昼食が済むと安寿は自室に行って着替えて、一週間分の外泊の準備をした。とはいっても、宿泊先は航志朗のマンションだ。三日分の着替えだけでじゅうぶんこと足りる。毎日、洗濯機を回せばいい。使い慣れた画材と一緒にいつものマウンテンリュックサックに詰めた。
航志朗とクルルはスーツケースを車のトランクケースに入れた。その上に安寿のマウンテンリュックサックも収めた。伊藤が航志朗に言った。
「では、航志朗坊っちゃん。今日から一週間、ご夕食は夕方にお届けいたします。他に何がございましたら、ご遠慮なくお申しつけください」
航志朗は頭を下げて礼を言った。
「伊藤さん、ありがとうございます。よろしくお願いします」
航志朗の隣にいる安寿も伊藤にお辞儀をした。クルルも日本語の会話を理解したかのようにぎこちなく頭を下に向けた。
安寿と航志朗は見つめ合った。
「行こうか、安寿」
航志朗は安寿の背中に手を回した。
しっかりと安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめてうなずいた。
「はい。航志朗さん」
伊藤はそんなふたりの姿を優しいまなざしで見守った。
車の排気音に気づいた安寿は窓の外を見た。華鶴が自分で車を運転して門の外へ出て行くのが見えた。空を見上げると陽が出て明るくなっている。春の気配を感じさせる柔らかく温かい風が頬に触れた。ふと安寿は思いついて航志朗に提案した。
「航志朗さん、クルルと三人でピクニックをしませんか?」
航志朗は不思議そうな表情を浮かべた。
「ピクニック? どこで」
「裏の森の池のほとりで」
目を細めて咲が言った。
「まあ、安寿さま、グッドアイデアですね。さっそく準備しましょう」
安寿とクルルは手をつないで池のほとりに向かう小道を歩いている。クルルは興味深そうに辺りを見回している。ふたりの後を航志朗は大きなバスケットを持ってついて行った。
並んだふたりの後ろ姿を見て、航志朗はつくづく思った。
(不思議な光景だな。着物姿の安寿とジーンズ姿のクルル。背丈はほぼ同じ。でも、まったく違和感がないのは、ふたりともインディゴブルーの服を身に着けているからか)
森に入るとクルルはすぐに気がついた。安寿に鼻を手であおぐジェスチャーをしながら英語で言った。
「アンジュ、この森、匂う」
こくんと安寿はうなずいてから訊いた。
「クルルは、この匂い、好き? 嫌い?」
クルルがはっきりと答えた。
「僕は嫌い」
安寿もはっきりと言った。
「私は好き」
安寿とクルルは肩を揺らして楽しそうに笑い出した。そんなふたりを航志朗がまた不思議そうに眺めた。クルルが振り返って航志朗に尋ねた。
「コウシロウ、君はこの匂いをどう感じるんだ?」
航志朗は怪訝な表情を浮かべて言った。
「この匂いって? 何にも俺には感じないが」
クルルと安寿は驚いたように顔を見合わせてから航志朗を見た。航志朗は首をかしげた。
三人は池のほとりに着いた。両手を腰に置いてクルルは池の水面をしばらく凝視した。
確信を持った口調でクルルが言った。
「この池の水、触ってはいけないな」
今度は安寿と航志朗が驚いて顔を見合わせた。航志朗がクルルの横顔をのぞき込んで尋ねた。
「クルル、どうしてそう思うんだ?」
クルルは顔をしかめて言った。
「直感だ。理由なんてない」
わざと航志朗は意味ありげな目線を安寿に送った。だが、安寿はそれを受け流して池を見つめた。灰色の池は暗くにごっているが、なぜかどこまでも透き通っているようにも見える。安穏なものなのか不穏なものなのかまったくわからないが、何かがそこに息づいているような気がして安寿は目を凝らしたが何も見えなかった。
突然、クルルが明るい表情になって尋ねた。
「あの木、もしかしてサクラか?」
はっと顔を上げて安寿がうなずいた。花の盛りはとっくに過ぎたが、まだちらほらと薄桃色の桜の花が咲いている。クルルは小走りで桜の木へ向かって行った。
安寿はあの男のことを思い出した。航志朗には隠すことができない。航志朗の気を悪くさせるのはじゅうぶん承知で安寿は正直に言った。
「航志朗さん、ごめんなさい」
いきなり安寿に謝られて、航志朗は当惑した。
「どうしたんだ、安寿?」
「私、十日ほど前に、ここに一人で来ました。桜の花が見たくて」
「そうだったのか」
航志朗は安寿の髪を軽くなでた。別に怒ったりはしないと安寿を安心させるように。
安寿は不安そうな影をその瞳に浮かべて、訴えるように航志朗に言った。
「その時、ここで、私、黒川さんに会いました。航志朗さんの従兄の」
航志朗は目を大きく見開いた。
「皓貴さんにか!」
安寿は目を固く閉じてうなずいた。
努めて冷静さを保ちながら航志朗は訊いた。
「安寿、大丈夫だったのか? 何か皓貴さんに言われたりはしなかったか」
航志朗はどうしても早口になってしまった。
声を少し震わせながら安寿が言った。
「はい。大丈夫でした。ただ、黒川さんは来月から清美大の准教授になられるそうです」
「なんだって!」
思わず航志朗は大声を出してしまった。航志朗は安寿の肩を強くつかんだ。恐る恐る安寿が見上げると、航志朗が険しい顔をして池をにらんでいた。その姿に安寿は胸騒ぎがしてならなかった。
クルルが戻って来て言った。
「サクラの花って匂いがしないんだな。この森の匂いのせいで感じないだけなのか」
安寿は心配そうにクルルに尋ねた。
「昼食をいただく場所、お屋敷のお庭の方がいい?」
安寿の言葉にクルルはうなずいた。
結局、三人は岸邸の庭にレジャーシートを広げてサンドイッチを食べた。先程から航志朗は黙り込んで何かを真剣に考えているようだった。安寿は不安げに航志朗を見つめた。クルルはそんな二人の様子に気づきつつもサンドイッチにかぶりついた。こんなにおいしいサンドイッチは生まれて初めてだと思いながら。
昼食が済むと安寿は自室に行って着替えて、一週間分の外泊の準備をした。とはいっても、宿泊先は航志朗のマンションだ。三日分の着替えだけでじゅうぶんこと足りる。毎日、洗濯機を回せばいい。使い慣れた画材と一緒にいつものマウンテンリュックサックに詰めた。
航志朗とクルルはスーツケースを車のトランクケースに入れた。その上に安寿のマウンテンリュックサックも収めた。伊藤が航志朗に言った。
「では、航志朗坊っちゃん。今日から一週間、ご夕食は夕方にお届けいたします。他に何がございましたら、ご遠慮なくお申しつけください」
航志朗は頭を下げて礼を言った。
「伊藤さん、ありがとうございます。よろしくお願いします」
航志朗の隣にいる安寿も伊藤にお辞儀をした。クルルも日本語の会話を理解したかのようにぎこちなく頭を下に向けた。
安寿と航志朗は見つめ合った。
「行こうか、安寿」
航志朗は安寿の背中に手を回した。
しっかりと安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめてうなずいた。
「はい。航志朗さん」
伊藤はそんなふたりの姿を優しいまなざしで見守った。